残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

2020.3.21.(土曜日)節分天井・彼岸底? COVID-19(2)

株式市場は波乱のままに連休入りとなった。今日は彼岸の中日。格言に「節分天井・彼岸底」という。NK平均、NYDow共に「節分」の高値圏から「彼岸」の今日へ急降下。下落率は、NK平均が23,400円⇒16,550円へ30%(▼6,850円)、NYDowは29,000$⇒19,200$へ34%(▼9,800$)である。

これをもって「彼岸底」となるのだろうか。波乱の元凶たる感染の拡大と経済の停滞は益々苛烈である。「底値の見極め」が関係者の最大の関心事。観測記事は枚挙にいとまがないが、論調は次第にリーマンショック級、乃至、それを超える可能性もありとするものに変わってきている。事態の世界的な危機的な状況を受けてのことであるが、如何にもおどろおどろしいものがある。

リーマンショック級とはどのようなものでしょう。株価変動のデータから見てみよう。起点は、通常、2008.9.15.Lehman Bros 社の経営破綻に先立つ1年前、2007年頃サブプライムローン問題が明るみになる直前の高値とされる。それによれば;

NK平均;2007.02.(高値)18,300円⇒2008.10.(底値)6,994円下落率61.8%    NYDow;2007.12.(高値)14,198$⇒2009.03.(底値)6,470$下落率54.4%     

コロナショックによる現時点での下落率は、リーマンショック時のそれに比して未だかなり小さいことが分かる。同等の下落率となれば、NK平均株価は9,217円、NYDow株価は13,474$という計算になる。リーマンショックの強烈さがうかがえる。

経済の破壊がどこまで及ぶのか、そしてその再生はどこから始まるのでしょうか。株価の動きはそのバロメーターとなるでしょう。「相場のことは相場にきけ」である。さて連休明けは如何に?

春分の翌日の今日は快晴。頃合いだろうと青貝山麓ミツマタの群生地へ出かけた。黄色い花が丁度満開で、谷あいを埋めて一面に咲き誇っている。しかし、ミツマタの花はどこか華やかさとは縁遠いところがある。素朴な色合いのせいだろうか。谷あいにひっそりと咲くせいだろうか。幻想的と評されることが多い。

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満開の時期とあって登山の人々と声を交わすことができた。さわやかな一日になった。ミツマタ群生地への道案内は次の記事からどうぞ;

afterglow0315.hatenadiary.jp

 

2020.3.13.(金曜日)記録的波乱の一日でした COVID-19(1)

1,000円、2,000ドルの乱高下にも驚かなくなった異常事態である。今日はMSQが輪をかけた前日比1,123円安の記録的な下落での安値更新となった。市場の鎮静・反転には、新型コロナウイルス感染者数のピークアウトが必須 とは市場関係者の言。株価は社会と経済を映す鏡というがどんな結末になるのだろうか。

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日和の方はといえば穏やかな金曜日である。

普段は人影がない平日の公園ですが、このところ、休校・休園の親子連れで賑わっている。

隣りの履正社のグランドには、甲子園夏春連覇の応援幕が掲げられたままになっている。

帰り道で年配の二人連れにミツマタの場所を尋ねられた。行ったことはあるが道を教えるほど覚えてはいない。大まかな方向を話しして別れた。青貝山のミツマタの群落は今が見ごろだろう。地図も持ってなさそうで大丈夫かと心配になる。

あとになってスマホのことに気が付いた。ミツマタの探訪記をブログにアップしている。なので検索してもらえばよかったのだ。自分はスマホは使わないので、咄嗟には、そのことに思い至らなかった。後の祭り。お二人は行き着けただろうか。

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家に帰るときれいな花の鉢が飾ってある。

ミニカトレアのヤンミンオレンジという品種。

輝くようなオレンジが素晴らしい。

親しくしている花の卸屋さんから、ホワイトデーのお返しに頂いたとのこと。

洋ランは苦手と言っているが、妻は来年の開花を目指して世話をするという。

育てやすい品種とのことなので期待しょう。

年々美しい花を咲かせて欲しいものだ。

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サクランボの白い花が青空に映えています。

例年よりも数は少ないが大輪の花です。

 

 

 

 

 

フキノトウ  春の香りを堪能しました

冬から春の境目の不安定な天気が続いている。昨日はアラレがぱらついたが、今日は一転しての晴天。そろそろ頃合いだろうと妻を誘ってフキノトウ探しに出かけた。目的地は京都・兵庫府県境の多紀連山の麓。いつもの山菜採りフィールドだ。

峠越えの国道173号は日陰の路肩に雪が溶け残っている。暖冬の今年にしては予想外の光景である。少し早すぎるかと心配になる。時期を外せば空振りになってしまう。その見極めは難しい。雪が積もったあぜ道で見つけたこともある。

心配は無用。すぐに見つかりました。鮮やかな黄緑色のフキノトウがあぜ道の枯草の中に輝いている。冬に黄色く芽吹くので「冬黄=フユキ」が、「フキ」の由来とか。その名の通り、冬枯れの中に鮮やかな黄色がひと際目立っています。

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今日は丁度良いタイミングらしく収穫も十分。芽はふっくらして大きい。暖冬のせいだろうか?その日のうちにフキノトウ味噌に変身。アツアツご飯に乗せて新鮮な春の香りを楽しみました。とてもおいしい!最高です!

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卑弥呼の都への水行陸行 続編(10) 芥川賞作家の邪馬台国論

このブログの記事『卑弥呼の都への水行陸行(1)~(9)』を読んだ知人が、"芥川賞作家の高城修三さんにこんな著書があるよ"と「大和は邪馬台国である」(1998 高城修三著 東方出版という本を送ってくれた。

芥川賞作家の邪馬台国論といえば松本清張「古代史疑」清張氏は"謎解きに興味あるので・・"とその執筆の理由を語っています。

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高城さんは本書について;

"我が国の統一国家がどのようにして形成されたかは、我々を深く規定している。

自らの生い立ちを知らずして、まっとうに生きることはできない。

この書が、我が国の古代を解明する確かな方向を示しえたとすれば、幸いである"と執筆への熱い思いを披歴されている。

ということで、本書は、邪馬台国卑弥呼、およびその前後の日本国創成の時代を論証するものです。記述は詳細、かつ本格的な大部であり、読み進めるのはかなりの難行となりました。幸い、清張氏の「古代史疑」が邪馬台国九州説であるのに対し、本書は、邪馬台国畿内である。小生がイメージする邪馬台国にも整合することもあり、興味深く読み終えることができた。

論旨は明快で曖昧さはない。親魏倭王卑弥呼魏志倭人伝は、倭迹迹日百襲姫命日本書紀)であり、天照大御神記紀)の原型でもあり、箸墓古墳の主であるとする。また、卑弥呼を共立した倭国連合の都は奈良県桜井市纏向であり、そこは、同時に邪馬台国の都でもあった。倭国連合に敵対した狗奴国遠江の久怒国を中心とする東海の諸国連合であるとしている。

大和朝廷の成立は、2世紀半ばごろに、先進の北九州の勢力が畿内に進出し、大和地域を征して、原大和朝廷となる邪馬台国を打ち立てたことに始まるとし、この経緯が神武東征として「記・紀」に伝承されていると論ずる。神武に続く、いわゆる欠史八代についても、「机上の創作」として打ち捨てられるべきではなく、一定の史実を反映したものと考えるべきとして詳しく論考されている。

例えば、卑弥呼は、神武に続く欠史八代の時代の第7代孝霊の皇女の倭迹迹日百襲姫であり、この時代の倭国の覇権をめぐる争乱ので、倭国連合王国の女王として共立されたものであり、その死後の箸墓古墳の築造によって、連合王国における邪馬台国の地位はより強固なものになったとする。

しかし、邪馬台国の覇権の確立、即ち、大和朝廷の成立は容易ではなく、さらなる争乱と女王台与の共立を要した。第10代崇神に至って、神意を聞く女性最高司祭者と国を佐治する男弟による祭政二元統治が発展的に統一されて、祭政一致崇神天皇による大和朝廷の皇統が確立された。また、崇神崩御年は290年と解読されるとしている。

ここでも著者の論は明快である。もやもやとして曖昧だったこの時代について、自分としては、納得性のある理解を得ることができた。

さて、著者は、"日本の古代文献、魏志倭人伝、考古学などを総合すれば、邪馬台国が大和であることは疑えないのだが、問題は倭人伝の行程記事にあった。ことに『南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月』は難問だった。行程の問題を解かない限り、邪馬台国論争に決着をつけるのはむつかしい。本居宣長内藤湖南も笠井新也も原田大六も、ここでつまづいた。これが解けたとき、私の中で初めて大和は邪馬台国になったと言える。"と述べている。

 

では、この難問を著者はどのように解いたのだろうか。その答えを以下に解説する。その前に、問題の魏志倭人伝の記述をおさらいする;

魏志倭人伝、即ち、『三国志』魏書東夷伝倭人条は、有名な「倭人は帶方の東南、大海の中に在り。山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。郡より倭に到る。・・・」の叙述からから始まって、帯方郡から倭人の国に至る行程を以下の通り記述している;

帶方郡を出発して、韓国南部、対馬壱岐を経たのち、

一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。千余戸有り。
東南のかた奴國に至ること百里。二萬余戸有り。
東行して不彌國に至ること百里。千余の家有り。
南のかた投馬國に至る。水行二十日。五萬余戸ばかり有り。
南のかた邪馬台國に至る。女王の都する所なり。水行十日陸行一月。七萬余戸有り。(注:最後の行の原文が『南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月』

単純な記述ですが、文言をそのまま辿るだけでは、邪馬台国の位置を特定できない。その結果、方位・里程・日程などが様々に解釈され、考古学の知見も加わって、九州説・畿内説などの諸説が生じ、それぞれが強く主張される邪馬台国論争となった。

 

 著者の答えは"末尾の水行十日陸行一月』は『水行十日。陸行一月。』と解釈すべきである。即ち、『水行十日』で一旦、文が完結し、次いで『陸行一月』の文があると解釈すれば、邪馬台国の位置が矛盾なく特定できる。"というものです。なお、方位については、多くの論が指摘する通り、「南」は「東」に読み替えるとしている。

著者は、これによって、魏志倭人伝が記述する邪馬台国への行程は、『不彌國は福岡市の那の津と考えられ、ここから瀬戸内海を、東へ水行二十日で投馬國に着く。投馬國は玉野市の玉と考えられる。ここから、更に瀬戸内海を、東へ水行十日で邪馬台国に到着する。又、不彌國から邪馬台国までは陸行一ヶ月である。』となり、邪馬台国が大和纏向であることが矛盾なく説明できると結論している。

本書の論は、瀬戸内海経由による邪馬台国への行程についてである。これとは別に日本海経由説も唱えられている。この場合、投馬國は出雲であるとされ、そこから東へ水行十日で、日本海沿岸地方、丹後や敦賀など、に上陸したのち、陸行一月で邪馬台国に到着するとする。この場合、倭人伝の記述する行程との矛盾はない。上陸地の記述がないとの指摘があるが、例えば、邪馬台国の版図がすでに日本海沿岸地方まで及んでいたとするなど、説明はできる範囲のことであろう。日本海経由説に関心のある方は、当ブログの記事『卑弥呼の都への水行陸行(1)~(9)』をご覧ください。

さて、邪馬台国論争は、どのような決着を見るのだろうか。文献資料においては、矛盾のない納得できる解読が求められる。しかし、新たな決定的な文献資料の発見がない限り、それをもって決着とするには困難があるだろう。ならば考古学的な発見に期待することになる。果たして、決定的な発見はあるだろうか。何れにしても、決着に至るまでの道のりは長い。邪馬台国は歴史のロマンであり続ける。