残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

卑弥呼の都”纏向”への旅

卑弥呼の都への水行陸行 続編(10) 芥川賞作家の邪馬台国論

このブログの記事『卑弥呼の都への水行陸行(1)~(9)』を読んだ知人が、"芥川賞作家の高城修三さんにこんな著書があるよ"と「大和は邪馬台国である」(1998 高城修三著 東方出版)という本を送ってくれた。 芥川賞作家の邪馬台国論といえば松本清張の…

卑弥呼の都への水行陸行(9) 分水界を越える

黒瀬集落に一夜を明かした一行は分水界を目指して出発した。由良川はここまでである。標高差25m、距離600mの分水界を越えれば淀川水系である。登りは緩やかで船の丘越えに問題はない。 分水界の先には胡麻平原が広がり、桂川の支流の胡麻川が流れる。 かつ…

卑弥呼の都への水行陸行(8) 由良湊から高屋川黒瀬へ

真名井原に一夜を過ごした一行の次なる目的地は由良川河口の由良湊である。船は夜のうちに船越の浜に移された。このあたりの天橋立は、幅が40mでしかない。由良湊へは、天橋立の砂洲を船を曳いて渡るのが近道なのだ。名勝"船越の松"はかつてこの地で行…

卑弥呼の都への水行陸行(7) 丹波国から邪馬台国へ

一行は竹野潟湖の朝を迎えた。残るは陸行1月である。陸路丹波国を進んで邪馬台国を目指すことになる。港と港を結ぶ海路に比べ、複雑である上に、それを想像する手掛かりに乏しい。それらしい断片を頼りに、空想の旅を続けよう。 湊には、底の浅い丹波の国の…

卑弥呼の都への水行陸行(6) 丹波国の道

一行の旅は、ここ丹後竹野から卑弥呼の都纏向まで、残すは陸行1月となった。現代の地図からすると、その距離は、おおよそ230km。1日あたり約8kmになる。東海道の旅人は時速3.4km、東海道や山陰道の宿場は約9km間隔である。1日8kmの陸行は十分に余裕があ…

卑弥呼の都への水行陸行(5) 丹波国の港

出雲国の美保関を出港して水行10日。いよいよ丹波国である。穏やかな初夏の日本海を進んで一行は丹後竹野潟湖の港に到着した。 河口の段丘上の大成古墳群からは竹野川が一望できる。 しかし丹波国に繁栄をもたらしたかっての竹野潟湖も竹野の港も今は砂に埋…

卑弥呼の都への水行陸行(4) 水行2日目 響灘を行く 

水行2日目は岡湊(芦屋町遠賀川河口)を発っていよいよ倭国本土を目指す。この日の目的地は、岡湊から約20kmの響灘に浮かぶ藍島である。九州と本土を隔てる響灘を、藍島を経由して、横断すれば出雲への最短距離となる。古代の人々もそれを知っていたであろう…

卑弥呼の都へ水行10日陸行1月(3) 不弥国の神湊

九州末盧國に上陸した一行は、伊都国、奴国と九州北部を陸行して不弥国に到着した。ここから再び水行して卑弥呼の都を目指すことになる。次の目的地は水行20日の投馬国である。 1日目の水行を再現してみる。1日の航行は20kmなので、目的地は20km先の港で…

卑弥呼の都へ水行10日陸行1月(2) 投馬国は出雲?

邪馬台国への旅を続けよう。その行程は、「不弥国より南のかた投馬國に水行二十日。更に、南のかた邪馬壱國に水行十日、陸行一月。」である。 不弥国に到着した一行は、卑弥呼の都に向けて出発した。次の目的地は投馬国である。水行20日を要するという。それ…

卑弥呼の都へ水行10日陸行1月(1) 経ヶ岬灯台を訪ねた 

カニシーズンが終わるので浅茂川温泉に出かけた。雪を心配していつも3月末になるが今年は更に遅くなって4月に入ってしまった。あと二日でカニはお仕舞いという。 以前は城崎が多かったが、ここ数年は浅茂川だ。 浅茂川温泉は丹後半島の西側の付け根の海辺に…