晩春の味覚 京都西山大枝の京タケノコ
春は足早というが、4月は早や月末。芽吹きの色にぼんやりと笑っていた山は、すっかり鮮やかな緑に変わった。若葉の山々は夏を迎える気配に満ちている。
ブログ記事の更新が途切れている。何とか繋がねばとPCに向かう。ネタがない訳ではない。桜のこと、ワラビ採りのこと、若葉のこと、春は春らしい話題を振りまいて過ぎていく。しかし5年目のブログは、季節も5巡目。同じ話題の繰り返しから新しい記事を書くのはむつかしい。同じ話題からはマンネリ記事しか生まれない。
「戦争と平和(トルストイ)」を読み始めた。厚めの岩波文庫で6冊。ボリュームたっぷりでようやく4冊目を読み終えた。朝夕1時間位でのんびり読むと週一冊のペースになる。小説は予想外にも戦記物。1812年のナポレオンのロシア侵攻を描く。
攻守を反転して、フランス皇帝ナポレオンをプーチン大統領に、ロシア皇帝アレキサンドルをウクライナのゼレンスキー大統領に読み替えると、現下のロシアのウクライナ侵攻戦争にぴったりと嵌って見えてくる。皮肉であるし面白くもある。戦場は現在のベラルーシである。全部読み終えての感想はどんなことになるのかが楽しみである。
京都西山大枝は我が家からは近い。名高い京タケノコの産地である。例年この季節には買い求めている。道路沿いの売店に土の付いた朝堀リの筍が並べられている。

花冷えの年度替わり
3月31日はかねて予約の認知機能検査の受診日。75歳以上の高齢者に、免許更新のごとに、認知機能の検査が義務つけられるようになって、2回目の受診になる。先ずは、今日が"2022年3月31日の木曜日"であることを忘れないようにと、言い聞かせながら、会場の豊中自動車教習所へむかった。
検査は、いつも出題されるという"今日は何年何日何曜日ですか?"から始まって、認知機能をテストする"時間の見当識・イラスト記憶・時計描画"の3項目について、約30分の検査が行われた。
問題自体は他愛もないのだが、検査の成績次第で、後日の高齢者講習が、2時間コースか3時間コースに振り分けられるとのことで、真剣にならざるを得ない。久しぶりに緊張の試験になった。
普段は車なので、久しぶりに電車での移動であった。通勤で通いなれた道中なのだが、駅の階段、ホーム、エスカレーター、全てが危なっかしく、危険を感じる。年齢と衰えを痛感。駅の窓口に長い行列ができていた。今日は3末。明日からは新年度。定期券の購入の行列と気が付いた。年度末のことなど、今やすっかり意識から消え去っている。世の中との疎遠を気付かされた。
4月1日の今日は一転して快晴。しかし、冷たい風が強く吹いている。春先は天気が不安定。今日の天気はまさしく花冷え。妙見山麓ひかり谷のヤマザクラが美しい。

悲憤慷慨・切歯扼腕 もどかしい弥生三月。行き着く先は・・・?
弥生三月。草木がますます元気になる月というが、気分はすぐれず元気が出ない。核大国による脅しと暴虐。対するに、悲憤慷慨・切歯扼腕しかない現実。もどかしさが募るばかりである。行き着く先は「核抑止力」?それとも?厳しい選択が迫られる。
冷戦中に米国で書かれていた論文「日本は独自の核抑止力を保有できる」(JBpress) - Yahoo!ニュース
ブログ更新の意欲も減退気味。ワクチン3回目の接種。初詣も3月になってしまった。フキノトウ採りも延びのびになっている。何かにつけて腰が重い。
いつもの西紀山麓へフキノトウ採り出かけた。例年より一週間遅れ。道路の法面のフキノトウはすっかり開花している。蕾と半開きの若い花を選んで収穫。帰って早速フキノトウ味噌の新鮮でほろ苦い春の味覚を堪能した。

読書雑記帳 (14)罪と罰/ドストエフスキー(江川卓訳・岩波文庫)ウクライナ侵攻の日に
「罪と罰」を読み終えて日にちが経ってしまった。忘れないうちにと感想を書き始めた途端に、ロシアのウクライナ侵攻である。大国と指導者。政治体制と歴史感。地政と経済。諸々が孕むものの重大性・危険性を改めて思い知らされた。マグマは、時として正当化されて暴発して、信じがたい蛮行をもたらす。
海外文学の楽しみに、作品に描かれる見知らぬ土地の歴史的・政治的・社会的・地理的な背景を知ることがある。作家はそれらを生き生きと語ってくれる。読者はそれらと同化して一喜一憂し、同時に、新しい知識に喜びを感じる。
「罪と罰」については超有名作という以外は全くの白紙。ロシアの文豪による難解な長編?あるいは、「おどろおどろしい」不気味さで迫ってくるような作品?といった位が先入観。
敬遠する一方で、いつかは読んでみないとという気持ちもある。“義務と挑戦”の思いで、完読できるかな?と読み始めた。
読み終わっての感想は、”食わず嫌い‟とはこのことか?である。案に相違して、内容はストレート。文庫本(上)(中)(下)三巻の長編であるが、分かりやすく面白く読むことができた。
小説の舞台は、19世紀末のロシア帝国の首都ペテルブルグ。街には乞食、泥棒、売春婦があふれ、貧民街と売春宿が軒を連ねる。困窮と格差と犯罪に喘ぐ帝都である。その日の食にも事欠くような境遇から抜け出す道は、あるとすれば、上流層とのコネクションが頼りである。そのような社会に生きる若者と友人たちの家族の愛と友情と再生の物語である。
物語は、文字通り「罪」と「罰」、即ち、主人公ラスコーリニコフが犯す殺人から始まって、彼が負う苦悩と刑の結末までを描く。そして、ソーニアの"無垢の愛"がラスコーリニコフの「救済」を予感させて物語は終わる。
「罪」と「罰」と「救済」に加えて、「正当化できる殺人はありうるか」という物語の重要な主題が提示される。ラスコーリニコフは、学費に窮して大学を除籍されている元大学生の身であるが、かつては法曹を目指す学生であり、「正当化できる殺人」は在りうるとする論文を発表しており、自らもその思想を信条としている。
ラスコーリニコフによれば、人間は「凡人」と「非凡人」に分けられ、「非凡人」は歴史上偉大な役割を果たす。そして「非凡人」は、その役割の達成のためには、殺人を犯す権利を与えられる。現に、カエサル、カール大帝、ナポレオンは、偉大な「非凡人」と崇められ、彼らの殺人は許容され、称賛される。それが証左ということである。
ラスコーリニコフ自身も、自分は「非凡人」に属する人間であると考えており、自らが正当と考える殺人をかねてから計画している。それは高齢の一人暮らしの強欲な高利貸しの老婆を狙った強盗殺人であり、奪った金品を社会の困窮者の救済に役立てるというものである。彼にとってそれは実行されねばならない正義でり、義務でもあった。そして、それは、遂に、実行され物語が始まる。
ロシアのウクライナ侵攻には言葉がない。たまたまこの小説を読み終えたところである。ドストエフスキーが150年前に投げかけた「正当化できる殺人=戦争」はあり得るか?の問いは今も新しいことを知る。独りよがりの「非凡人」気どり。自己正当化された「戦争の大義」。どれも許されることではない。現代の我々にはあまりにも自明である。
しかしその自明はしばしば踏みにじられてきた。そして、それが今日のヨーロッパで生じているということである。信じがたい衝撃である。醜く、聞くに堪えない、自己正当化された「戦争の大義」が声高に叫ばれている。
作家は、自身が投げかけた「正当化できる殺人は在りうるか」の問いに、どのように答えているのだろうか?
主人公ラスコーリニコフは、物語の最終終盤、入牢に及んでも、なお、未だ改心の境地には至らず、依然迷いの中にあるように描かれる。人間は自己正当化の呪縛から逃れられないのだろうか?ドストエフスキーは、ラスコーリニコフに回生を与えない。彼の回生、即ち、悔い改めと新生は、ソーニアが体現する「無私の愛」と「自己犠牲」の心をしてのみ与えられる。そのことを予感させ、未来の希望を描いて物語は終わる。
人生の辛酸を経験し尽くしたという、人生の達人にして、文豪と称される作家ドストエフスキー。ラスコーリニコフによる"独りよがりの「非凡人」気どりの人物の、自己正当化した「殺人」"は許されないこと、「無私の愛」「自己犠牲」の心が救いであると訴えている。世界は「独善的な暴走者」によって脅かされる。人々はそのような者を生んではならないし、力を与えてはならない。