残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

読書雑記帳 (14)罪と罰/ドストエフスキー(江川卓訳・岩波文庫)ウクライナ侵攻の日に

罪と罰」を読み終えて日にちが経ってしまった。忘れないうちにと感想を書き始めた途端に、ロシアのウクライナ侵攻である。大国と指導者。政治体制と歴史感。地政と経済。諸々が孕むものの重大性・危険性を改めて思い知らされた。マグマは、時として正当化されて暴発して、信じがたい蛮行をもたらす。

海外文学の楽しみに、作品に描かれる見知らぬ土地の歴史的・政治的・社会的・地理的な背景を知ることがある。作家はそれらを生き生きと語ってくれる。読者はそれらと同化して一喜一憂し、同時に、新しい知識に喜びを感じる。

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罪と罰」については超有名作という以外は全くの白紙。ロシアの文豪による難解な長編?あるいは、「おどろおどろしい」不気味さで迫ってくるような作品?といった位が先入観。

敬遠する一方で、いつかは読んでみないとという気持ちもある。“義務と挑戦”の思いで、完読できるかな?と読み始めた。

読み終わっての感想は、”食わず嫌い‟とはこのことか?である。案に相違して、内容はストレート。文庫本(上)(中)(下)三巻の長編であるが、分かりやすく面白く読むことができた。

小説の舞台は、19世紀末のロシア帝国の首都ペテルブルグ。街には乞食、泥棒、売春婦があふれ、貧民街と売春宿が軒を連ねる。困窮と格差と犯罪に喘ぐ帝都である。その日の食にも事欠くような境遇から抜け出す道は、あるとすれば、上流層とのコネクションが頼りである。そのような社会に生きる若者と友人たちの家族の愛と友情と再生の物語である。

物語は、文字通り「罪」と「罰」、即ち、主人公ラスコーリニコフが犯す殺人から始まって、彼が負う苦悩と刑の結末までを描く。そして、ソーニアの"無垢の愛"がラスコーリニコフの「救済」を予感させて物語は終わる。

「罪」と「罰」と「救済」に加えて、「正当化できる殺人はありうるか」という物語の重要な主題が提示される。ラスコーリニコフは、学費に窮して大学を除籍されている元大学生の身であるが、かつては法曹を目指す学生であり、「正当化できる殺人」は在りうるとする論文を発表しており、自らもその思想を信条としている。

ラスコーリニコフによれば、人間は「凡人」と「非凡人」に分けられ、「非凡人」は歴史上偉大な役割を果たす。そして「非凡人」は、その役割の達成のためには、殺人を犯す権利を与えられる。現に、カエサルカール大帝、ナポレオンは、偉大な「非凡人」と崇められ、彼らの殺人は許容され、称賛される。それが証左ということである。

ラスコーリニコフ自身も、自分は「非凡人」に属する人間であると考えており、自らが正当と考える殺人をかねてから計画している。それは高齢の一人暮らしの強欲な高利貸しの老婆を狙った強盗殺人であり、奪った金品を社会の困窮者の救済に役立てるというものである。彼にとってそれは実行されねばならない正義でり、義務でもあった。そして、それは、遂に、実行され物語が始まる。

ロシアのウクライナ侵攻には言葉がない。たまたまこの小説を読み終えたところである。ドストエフスキーが150年前に投げかけた「正当化できる殺人=戦争」はあり得るか?の問いは今も新しいことを知る。独りよがりの「非凡人」気どり。自己正当化された「戦争の大義」。どれも許されることではない。現代の我々にはあまりにも自明である。

しかしその自明はしばしば踏みにじられてきた。そして、それが今日のヨーロッパで生じているということである。信じがたい衝撃である。醜く、聞くに堪えない、自己正当化された「戦争の大義」が声高に叫ばれている。

作家は、自身が投げかけた「正当化できる殺人は在りうるか」の問いに、どのように答えているのだろうか?

主人公ラスコーリニコフは、物語の最終終盤、入牢に及んでも、なお、未だ改心の境地には至らず、依然迷いの中にあるように描かれる。人間は自己正当化の呪縛から逃れられないのだろうか?ドストエフスキーは、ラスコーリニコフに回生を与えない。彼の回生、即ち、悔い改めと新生は、ソーニアが体現する「無私の愛」と「自己犠牲」の心をしてのみ与えられる。そのことを予感させ、未来の希望を描いて物語は終わる。

人生の辛酸を経験し尽くしたという、人生の達人にして、文豪と称される作家ドストエフスキーラスコーリニコフによる"独りよがりの「非凡人」気どりの人物の、自己正当化した「殺人」"は許されないこと、「無私の愛」「自己犠牲」の心が救いであると訴えている。世界は「独善的な暴走者」によって脅かされる。人々はそのような者を生んではならないし、力を与えてはならない。