残照身辺雑記

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卑弥呼の都への水行陸行 続編(10) 芥川賞作家の邪馬台国論

このブログの記事『卑弥呼の都への水行陸行(1)~(9)』を読んだ知人が、"芥川賞作家の高城修三さんにこんな著書があるよ"と「大和は邪馬台国である」(1998 高城修三著 東方出版という本を送ってくれた。

芥川賞作家の邪馬台国論といえば松本清張「古代史疑」清張氏は"謎解きに興味あるので・・"とその執筆の理由を語っています。

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高城さんは本書について;

"我が国の統一国家がどのようにして形成されたかは、我々を深く規定している。

自らの生い立ちを知らずして、まっとうに生きることはできない。

この書が、我が国の古代を解明する確かな方向を示しえたとすれば、幸いである"と執筆への熱い思いを披歴されている。

ということで、本書は、邪馬台国卑弥呼、およびその前後の日本国創成の時代を論証するものです。記述は詳細、かつ本格的な大部であり、読み進めるのはかなりの難行となりました。幸い、清張氏の「古代史疑」が邪馬台国九州説であるのに対し、本書は、邪馬台国畿内である。小生がイメージする邪馬台国にも整合することもあり、興味深く読み終えることができた。

論旨は明快で曖昧さはない。親魏倭王卑弥呼魏志倭人伝は、倭迹迹日百襲姫命日本書紀)であり、天照大御神記紀)の原型でもあり、箸墓古墳の主であるとする。また、卑弥呼を共立した倭国連合の都は奈良県桜井市纏向であり、そこは、同時に邪馬台国の都でもあった。倭国連合に敵対した狗奴国遠江の久怒国を中心とする東海の諸国連合であるとしている。

大和朝廷の成立は、2世紀半ばごろに、先進の北九州の勢力が畿内に進出し、大和地域を征して、原大和朝廷となる邪馬台国を打ち立てたことに始まるとし、この経緯が神武東征として「記・紀」に伝承されていると論ずる。神武に続く、いわゆる欠史八代についても、「机上の創作」として打ち捨てられるべきではなく、一定の史実を反映したものと考えるべきとして詳しく論考されている。

例えば、卑弥呼は、神武に続く欠史八代の時代の第7代孝霊の皇女の倭迹迹日百襲姫であり、この時代の倭国の覇権をめぐる争乱ので、倭国連合王国の女王として共立されたものであり、その死後の箸墓古墳の築造によって、連合王国における邪馬台国の地位はより強固なものになったとする。

しかし、邪馬台国の覇権の確立、即ち、大和朝廷の成立は容易ではなく、さらなる争乱と女王台与の共立を要した。第10代崇神に至って、神意を聞く女性最高司祭者と国を佐治する男弟による祭政二元統治が発展的に統一されて、祭政一致崇神天皇による大和朝廷の皇統が確立された。また、崇神崩御年は290年と解読されるとしている。

ここでも著者の論は明快である。もやもやとして曖昧だったこの時代について、自分としては、納得性のある理解を得ることができた。

さて、著者は、"日本の古代文献、魏志倭人伝、考古学などを総合すれば、邪馬台国が大和であることは疑えないのだが、問題は倭人伝の行程記事にあった。ことに『南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月』は難問だった。行程の問題を解かない限り、邪馬台国論争に決着をつけるのはむつかしい。本居宣長内藤湖南も笠井新也も原田大六も、ここでつまづいた。これが解けたとき、私の中で初めて大和は邪馬台国になったと言える。"と述べている。

 

では、この難問を著者はどのように解いたのだろうか。その答えを以下に解説する。その前に、問題の魏志倭人伝の記述をおさらいする;

魏志倭人伝、即ち、『三国志』魏書東夷伝倭人条は、有名な「倭人は帶方の東南、大海の中に在り。山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。郡より倭に到る。・・・」の叙述からから始まって、帯方郡から倭人の国に至る行程を以下の通り記述している;

帶方郡を出発して、韓国南部、対馬壱岐を経たのち、

一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。千余戸有り。
東南のかた奴國に至ること百里。二萬余戸有り。
東行して不彌國に至ること百里。千余の家有り。
南のかた投馬國に至る。水行二十日。五萬余戸ばかり有り。
南のかた邪馬台國に至る。女王の都する所なり。水行十日陸行一月。七萬余戸有り。(注:最後の行の原文が『南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月』

単純な記述ですが、文言をそのまま辿るだけでは、邪馬台国の位置を特定できない。その結果、方位・里程・日程などが様々に解釈され、考古学の知見も加わって、九州説・畿内説などの諸説が生じ、それぞれが強く主張される邪馬台国論争となった。

 

 著者の答えは"末尾の水行十日陸行一月』は『水行十日。陸行一月。』と解釈すべきである。即ち、『水行十日』で一旦、文が完結し、次いで『陸行一月』の文があると解釈すれば、邪馬台国の位置が矛盾なく特定できる。"というものです。なお、方位については、多くの論が指摘する通り、「南」は「東」に読み替えるとしている。

著者は、これによって、魏志倭人伝が記述する邪馬台国への行程は、『不彌國は福岡市の那の津と考えられ、ここから瀬戸内海を、東へ水行二十日で投馬國に着く。投馬國は玉野市の玉と考えられる。ここから、更に瀬戸内海を、東へ水行十日で邪馬台国に到着する。又、不彌國から邪馬台国までは陸行一ヶ月である。』となり、邪馬台国が大和纏向であることが矛盾なく説明できると結論している。

本書の論は、瀬戸内海経由による邪馬台国への行程についてである。これとは別に日本海経由説も唱えられている。この場合、投馬國は出雲であるとされ、そこから東へ水行十日で、日本海沿岸地方、丹後や敦賀など、に上陸したのち、陸行一月で邪馬台国に到着するとする。この場合、倭人伝の記述する行程との矛盾はない。上陸地の記述がないとの指摘があるが、例えば、邪馬台国の版図がすでに日本海沿岸地方まで及んでいたとするなど、説明はできる範囲のことであろう。日本海経由説に関心のある方は、当ブログの記事『卑弥呼の都への水行陸行(1)~(9)』をご覧ください。

さて、邪馬台国論争は、どのような決着を見るのだろうか。文献資料においては、矛盾のない納得できる解読が求められる。しかし、新たな決定的な文献資料の発見がない限り、それをもって決着とするには困難があるだろう。ならば考古学的な発見に期待することになる。果たして、決定的な発見はあるだろうか。何れにしても、決着に至るまでの道のりは長い。邪馬台国は歴史のロマンであり続ける。