残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

大寒初候 今年の冬あれこれ

七十二候が大寒初候「款冬華(ふきのはなさく)」(1/20~1/24頃)になった。

f:id:afterglow0315:20210124193252p:plain
「款冬」はフキのことでフキノトウが芽吹くころとある。

当地での盛期は2月末から3月初めになる。

写真は2018.3.15.のもの。少し薹(トウ)が立ち始めている。

 

今シーズンは早々に積雪が4日もあって珍しいことだと思っていたが、今度は大寒に入ってから3日連続の雨となった。3日とも終日の雨でこの時期には珍しい。今年の冬はこれから先はどうなるのだろう。

車通勤にとって雪は大敵である。ここ数年ほとんど雪がなかったので冬用タイヤは準備していない。積雪の次第では欠勤である。幸い雪は3回は休日で、心配したのは1日だけで、それも大丈夫ですんだ。

雨の日は、傘を差しながらのWalkingになる。気の滅入ること甚だしい。サボり心が顔を出す。しかし継続が肝要と我慢して出かけて何とか皆勤できている。

同級会の幹事からメールがあって、久しぶりに友人たちとメール交換。話題は、自粛のこと、体調のことなど。本を出版したというのもある。メンバー10人/82歳。文字通り十人十色。人それぞれである。日常が戻っての早い再会を願う。

 

読書雑記帳 (2)怒りの葡萄・赤い月・夜と霧

私が利用している図書館です。自宅から徒歩5分で便利です。読書雑記帳は、独断と超理解による、自分のための、備忘印象メモです:Just to be sure!

f:id:afterglow0315:20210117131651p:plain

怒りの葡萄」「赤い月」「夜と霧」は、図書館が年末年始の長期休館になるので纏めて借りた本の中の3冊です。共通するところがあるので一緒に取り上げます。

どれも有名な大ベストセラーだけに素晴らしかったです。「怒りの葡萄」は先入観がなかったこともあって、とても興味深くかつ印象深く読みました。

f:id:afterglow0315:20210117141659p:plain

怒りの葡萄(J・スタインベック新潮文庫:超有名な米国文学作品。著者はピューリツアー賞・ノーベル文学賞の受賞者。

1930年代初頭のオクラホマ旱魃と砂嵐による農地の荒廃と大資本による農地の買収と大規模化が進み、伝統的な家族経営の農家は苦境に陥っていた。

自活の基盤を失った主人公一家は、伝来の土地を見限って、新天地カリフォルニアを目指すことになる。家族の長老を次々に失うなど、貧困の中、過酷な極限の旅の末、辛うじて辿り着いたカリフォルニアは・・・。

自然の猛威と近代化の波に翻弄されて流浪する、数十万ともいう、農民の苦難を描いた本作は、その強烈なメッセージ性によって、全米に大論争を巻き起こしたという。作品には、旧約聖書の物語が底流するのだが、特に、有名な印象的なラストシーンなど、残念ながら、自分にはその理解は朧げであった。

赤い月(なかにし礼岩波現代文庫:有名作詞家の著作。実体験をもとにした自伝的小説。作者は「書かずにはいられなかった」との言を残した。作品に込められた「国家の理不尽への怒り」「力強く生きた母へのオマージュ」がその思いなのだろうか。

満州に新天地を目指した貧しい夫婦が、その地に築き上げた一代の栄華。敗戦による一瞬の瓦解。そして混乱の中の逃避行を描く。崩壊が始まった日、妻は、夫と離れたまま一人困難に直面する。そして、幼い姉弟を伴って、過酷な逃避行を生き抜く。

砂上の王国であった旧満州国と、その砂上に築かれた自らの出自である楼閣。その崩落のさまを作者は厳しく見つめる。対比するかのように、奔放さと力強さに溢れ、そして自由の人である妻、即ち著者の母、が描かれる。

著者は私の8ヶ月年長である。私の敗戦の記憶は僅かである。本書を読んで、その日を境に一転した運命のことを思った。悲しみ、苦しみ、そして無言の献身。それは漏らされることなく、微かな記憶でしかない。私はそれを理解しないままだ。

夜と霧(E・フランクルみすず書房:本書は、原題の「強制収容所における一心理学者の体験」の通り、心理学者のフランクルが、自身の収容所での実体験を記述したものである。フランクルは、収容の時点で、すでに、心理学の学問的な知見・理論を有しており、収容所はそれを検証する場であったとされる。

収容、労役、そして解放までの日々が記述される。残虐・陰惨なシーンや、加害者に対する告発などを想像しがちであるが、それらは稀で、多くは、極限の状況におかれた収容者の心理の観察と考察に向けられる。心理学者による、冷静、客観的な記述はかえって恐怖である。

そこでは、肉体の存在の意味は、労働を提供する「もの」としてのみ認められる。最低限の衣食住が与えられ、最大限の労働力の供出が求められる。投入は劣悪・極小にとどめられ、出力の要求は過酷である。入出力の効率が判定され、不良とされる者は、直ちに、死へと選別される。収容者は死と隣り合わせの極限を生かされた。

収容者の心理や、自身の体験が語られる。自身が心理カウンセラーに任じられ、自死を防ぐために行ったカウンセリングのことを紹介している; 彼は説くー絶望の中で生きることの目的は「未来への希望」のためである。なぜなら、未来は未知であり絶望と決まったものではないから。また、ある時はー生きる支えになるものは「生きることの可能性への希望」である。希望を失うと、身体は死に向かい、あたかも免疫力が消滅するかのように命が消えていく。・・さまざまな議論・・・。そして解放の時を迎える。

 三つの物語は人が極限を生き抜く物語である。主人公たちは、それぞれが直面した状況を生き抜く。フランクルは、のちに、その体験と考察から「ロゴ・セラピー(生きるための心理療法)」と称する心理学を提唱した。それはまた、「逆境の心理学」とも呼ばれる。フランクルは、フロイトユングアドラーに次ぐ現代心理学の第4の巨頭とされています。

 さて、我々の未来には「 生きる可能性のない未来」即ち、死が待ち受けている。それはすべての人に訪れ、すべての人はそれを超えていく。超えたその先は・・・?

 

読書雑記帳 (1)ニューノーマル

読書の時間が急増した。 Covid-19の出現によって、当たり前であった日常が、ウイルスとの隔離性という、思いもよらない視点で選別されることになった。不都合なものは排斥され、そうでないものは維持・選好される。かくして新たな日常「ニューノーマル」が生じた。「読書時間の急増」は私の「ニューノーマル」である。

読書は嫌いではないが、偏食が著しい。ビジネス・専門・科学・歴史など教養・実用・ノンフィクションに偏重している。それも現役時代のことで、今ではポツリぽつりになっている。文学・小説の類は猶更のことで縁遠い。年を取ると大抵のことには驚かないし感受性も劣化している(そのくせ涙腺は緩い)。記憶力も大切である。読んだ先から忘れてしまうので大変である。こんなことで読書を楽しめるだろうか心配である。偏食も身体によくないだろう。改善したい気持ちもある。

 

ということで、半年前になるが、これではならじと、コロナ自粛を好機に、日本文学の再読を始めた。手元の新潮の全集から手あたり次第。「砂の女」「城崎にて」「斜陽」「人間失格」「金閣寺」「仮面の告白」「雪国」「山の音」・・・。

 
Q:いずれの作品も日本文学の最高峰という。しかしながら、残念なことに、自分の心に訴えてくるものがない。作家は思いや風景を文字に託している。どう読んだらいいのだろう。美意識や問題意識にズレがあるということか・・。単なる理解力の問題なのか・・。はたまた理系の価値観に浸かり切ったせい?
 
A:多分読んでいる本が時代に或いは読み手の要望にマッチしていないからだと思うよ。「砂の女」は別として、志賀直哉三島由紀夫はとても退屈です。川端康成も同じかも。いまさら「人間失格」を読んでもねー。とは妹からのコメント。賢くて優しい!
 
 コメントに納得。本との出会いを求めることが肝心と理解して、取あえず拘りなく色々と読むことにした。結果、読書時間が急増。役に立つ読書から楽しむ読書へ意識が少し変わった気もする。「読書雑記帳」の記事タイトルで読書記録をつけることにした。

2021年元旦 DXリモートで初日の出 本栖湖竜神池のダブルダイヤモンド富士

元日の朝。何時だろうと枕もとのリモコンを探ってテレビをつける。番組はいつもと違って、正月の特番。本栖湖竜神池のダブルダイヤモンド富士を放送するという。初日の出の中継である。快晴で大丈夫な様子。縁起のいい目覚めである。

日の出時刻は午前8時。TVの画面からカメラ撮影ができるようにするので準備をとアナウンサーが呼び掛けている。間もなくである。慌てて用意して撮影した。

快晴の富士山と静かな湖面の逆さ富士。素晴らしいダブルダイアモンド富士の初日の出である。予想以上に綺麗に写っている。TV画面越しとは思えない。

f:id:afterglow0315:20210104162422p:plain

ダブルダイヤモンド富士はご利益2倍とのこと。いま話題のDX。リモートの初日の出の参拝だが、ご利益は大丈夫なのかな?それともご利益は減ってしまうのか?

昨今にぎやかなDXであるが、70年以上も前の1950年代、自分が中学生のころ、DXといえば、Distant X=遠距離無線通信のことで、BCL少年であった自分には馴染み深い用語であった。DXという用語には懐かしさが詰まっている。

 afterglow0315.hatenadiary.jp

時は移って、現下のDXとは=Digital Transformation;ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」という概念とのこと。ビジネス用語としては、「企業がテクノロジー(IT)を利用して事業の業績や対象範囲を根底から変化させる」という意味合いで用いられる(Wikipediaより)。2004に提唱されたとのこと。

家電のリモコンは立派なDXである。各地の浜辺の波の具合がネット配信されており、釣り師やサーファーは自宅に居たままでその日の海況が知れる。原始的なDXはすでに大いに実用されている。素人目には、基本的な概念はすでに確立されているようにも見える。

昨今のDX熱の理由はインターネットの超高速化・同時性の実現にあるという。同時性は新分野を開くことになるだろう。どのような世界が現れるのだろうか?IT技術開発の行く末は?発明と発見のロマンは残されているのだろうか?画期的な要素技術はありうるのだろうか・・?