残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

積雪の日 

未明からの雪がまとまった積雪になった。昼過ぎまで小雪がちらついて、道路まで白くなっている。元日早々の積雪を皮切りに、雪の日が多い。もう4回?ぐらいになる。長期予報では”寒さが厳しい冬”とのこと。🎯當り!ということらしい。

故郷富山の冬を思い出した。寒さが厳しい日は粉雪になる。通学の服の袖に受け止めて、素早くのぞき込むと、真っ白な六角形の美しい結晶が見える。

寒さが緩むと大きなボタン雪が降る。雪は、見上げると、黒い影になって落ちてくる。白い空の奥から、黒い粒が卒然と現れて、次々と落ちる。生まれ、成長し、際限なく降り注ぐ様は見飽きない。そして目の前でボタン雪になって降り積もる。

早春の冷え込んだ朝は特別である。冬の終わりは、雪は根雪になって深く積もって、畝も水路も覆い隠して、学校の運動場の先は、堺目のない一面の雪野原になる。前日の日差しで溶けた表層は、夜の寒気でしっかり凍り付いている。

こうなると雪の野原は、子供の足では踏み破る心配はない。どこまでも存分に歩いて行ける。始業を忘れてどこまでも歩く。追いかけてきた先生も、めったにない機会と、一緒に歩く。冬の終わりの楽しい思い出である。

f:id:afterglow0315:20220115144647j:plain

 

成人の日 裏六甲山遠望

公園の高台からの眺めです。正月気分もやっと抜けて、ウオーキングもコース本来のゴール地点に到達です。最後の石段173段を完登。サボり癖になりそうなところを克服!気持ちのいい快晴だが眺めはスッキリしていません。冬にみられる薄い霧を「冬霞」というという。遠くの裏六甲も霞んで見えている。これが「冬霞」なのでしょう。

季節は「寒中」。一年で一番寒い時期に入っている。ここのところ鳥たちの鳴き声を聞かなくなった。この時期は鳥たちも冬籠りなのかな。

f:id:afterglow0315:20220114140455j:plain

 

雪の元日

今年はWhite New Yearになった。目を覚ますとうっすらと雪化粧。雪の新年である。

元日の朝は何かとあわただしい。お雑煮。分厚い朝刊。年賀状。ニューイヤー駅伝。いつもの朝とは少し違う。

お雑煮を済ませて、先ずは雪景色を撮りにwalkingに出かけた。薄曇りに小雪がちらついて風が冷たい。それでも雪化粧の町の様子は美しい。公園ではお父さんと元気に凧あげです。

帰ってみると駅伝は後半戦に入っていた。最後はアンカー勝負でHondaの初優勝。旭化成区間賞が2個なのに3位に終わった。残念な結果であった。

年賀状が届いている。ミスマッチが増えた。送った先と受け取る先が一致しない。長年の間にお互いの思いがずれてくる。

f:id:afterglow0315:20220101201833p:plain

f:id:afterglow0315:20220101201930j:plain

 

冬至の柚子湯

今日は冬至。またの名は一陽来復の日。短日に向かっていた太陽の運行が、この日、陰の極に達し反転、陽気に向かいます。即ち「陰の気が極まって陽の気にかえる」の意。

ここから日が長くなり始めて、暦の上では、冬至は「冬が終わり春が始まる日」「干支が替わって新年になる日」であり、転じて「悪いことが続いた後で幸運に向かう」転機の日であるという。すべてにおいて前向きで縁起のいい日ということになる。

ところが、私の「冬至」に対するイメージは「暗くて陰鬱な冬がまだまだこれから長く続く」というもので、本来の意味合いとは真逆である。雪国育ちのせいだろうか?太平洋側の地に暮らすようになって、この時期の快晴続きに驚愕したことを覚えている。こちら育ちの人にとっての「冬至」のイメージはどんなものなのだろう?そういえば、裏日本という言い方もあった。子供ながらに悔しい思いがあったものだが、いつのまにか使われなくなってしまって久しい。

冬至にはユズ湯だ。爽やかなユズの香にゆっくり浸かりました。江戸時代に、銭湯で客寄せのため、冬至の日に柚子を入れたのが始まりとのこと。邪気を払い、健康を授けるという柚子の実が、湯船にぷかぷかぷかぷか浮いている。明るいうちの長閑な早風呂である。

f:id:afterglow0315:20211223095334p:plain