残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

読書雑記帳 (9)夜明け前(第一部・第二部)/島崎藤村

木曽路はすべて山の中である。」の書き出しが余りにも有名な島崎藤村の"夜明け前"。一部・二部各上下合わせて文庫本4冊の長編であるが、-息を継ぐ間もなく、頁をめくるのがもどかしい-の形容が大げさでない夢心地のままに読了した。とても素晴らしかったです。

中山道69次の江戸から数えて第43宿、木曽11宿の南端、馬籠宿を舞台に、幕末から明治への激動の中で、消え去る運命の宿駅の姿と、自らの信条を貫こうとする馬籠宿本陣の当主青山半蔵の生涯が克明で忠実な史実の描写とともに描かれる。

半蔵は、宣長、篤胤を敬う平田派国学の門人であり、明治維新に王政復古の夢を託している。維新成立の歓喜、しかし理想には遠い現実への落胆、そして宿駅の消滅。その狭間に生きた人々と馬籠宿の滅びのドラマを、藤村は、溢れる思いと共に、美しく簡潔な筆致で描きだす。いうまでもないが、馬籠本陣は藤村の生家であり、半蔵は作者藤村の実父がモデルである。

 

夜明け前(第一部・第二部)島崎藤村/発行1969 岩波文庫(原著 1929-1935) 

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物語は、嘉永6年(1853)の黒船来航から半蔵が没する明治19年(1886)までの33年間の主人公青山半蔵と馬籠宿の運命を描く。

17代続くという青山家は、遠い昔に入植した馬籠開拓の祖であり、幕藩体制下の今、馬籠宿の本陣・庄屋・問屋を代々務めている。

半蔵は、馬籠宿の本陣・庄屋・問屋の当主であり、同時に、国学の門人して、王政復古の夢を追い求めている。それは黒船来航と共に俄かに現実の論議となってきていた。

幕府宿駅の当主であることと、国学の徒であることは、矛盾を孕んだものであった。しかし半蔵は自己の務めと信念に忠実であるべく奔走し献身する。

やがて王政復古は成るが、一方で、半蔵は、矛盾の苦しみのゆえか、あるいは満たされない思いの故か、変調をきたし、遂には、座敷牢に閉ざされる身になってしまう。

 訪れた弟子に半蔵は「私もこんなところに来てしまった。わたしは、おてんとうさまも見ずに死ぬ。」と訴えかける。果たしてそれは、日の当たらない座敷牢を嘆いたのだろうか、それとも、新政府の治世が、王政復古の理想には遠く、未だ、夜明け前にあると嘆いたものだったのだろうか。半蔵は波乱に満ちた悲劇的な生涯を閉じる。

半蔵の死から3年の明治22年には東海道線全線開通。同24年には東北線の上野青森間開通。近代化は止まるところを知らず、宿駅の終焉もまた間近に迫っていた。

江戸と京都を結ぶ中山道の馬籠宿には、幕末の歴史の足跡が刻まれている。物語では、和宮降嫁の行列、日光への例幣使、勤王・佐幕の志士達の往来、天狗党蜂起、参勤交代の廃止など馬籠宿を通り過ぎて行った数々のできごとが語られる。そして、律令の駅制以来という宿場での人馬継立や休泊の様子が生き生きと描かれる。それらはどれもが半蔵が苦労の中で差配してきたことであった。しかしすべてのことは、近代化の波と共に失われる運命となった。

北陸街道三日市宿(越中)は私の生まれ故郷である。 中山道追分宿信濃)で分かれて、越後・越中・加賀・越前と日本海側を大きく迂回して、近江の鳥居本宿で、再び中山道に接する長大な迂回街道が北陸街道(北国街道ともいう)である。その中程、越中国黒部川の渡しに臨む宿駅が三日市宿(越中)である。

そこにかっての宿場町を偲ばせるものはない。わずかに街道沿いの商家がかっての本陣跡であるという。宿駅の滅びのドラマがここにも秘められている。

馬籠の宿駅の人々の肉声をこの物語が伝えてくれる。そこに描かれた馬籠宿の本陣・庄屋・問屋。それらを担った人びと。人馬継立や休泊の繁忙と苦心のこと。そして宿駅の衰亡に向かう運命。読み進むうちに、それらの全てが我がことのように押し寄せてきた。小説は、故郷三日市宿の在りし日とその終焉のことを思わせた。そして夢心地の時を過ごさせた。