残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

卑弥呼の都への水行陸行(8) 由良湊から高屋川黒瀬へ

真名井原に一夜を過ごした一行の次なる目的地は由良川河口の由良湊である。船は夜のうちに船越の浜に移された。このあたりの天橋立は、幅が40mでしかない。由良湊へは、天橋立の砂洲を船を曳いて渡るのが近道なのだ。名勝"船越の松"はかつてこの地で行われた丘舟曳きを今に伝えている。

一行は、早朝の船越の浜を、目の前に広がる宮津湾に漕ぎだした。由良湊までは20km1日の海路である。

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波静かな宮津湾を漕ぎ進む。昼には湾口の岬を越えて、遠くに由良川の河口が見えだした。

夕刻、船団は広く穏やかな由良川河口の由良湊に到着した。

由良川北近畿最大の河川である。南で淀川水系に近接し、更に、大和川水系に続いている。瀬戸内航路が未通であったこの時代、これら水系を繋ぐ河川舟運は、西国と畿内をむすぶ、最も重要な通商路であった。由良湊はその出発地である。

丹波国は、この通商路の、竹野から亀岡に至る、北半分を占拠するという地政学的優位によって古代王国として繁栄することになった。しかし、その優位は長く続くことはなかった。丹波古代王国はやがて終焉を迎えることになる。それはこの旅の時代のずっと後のことであるが・・。
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由良川の流れは緩やかで水量も多い。河川舟運には願ってもない好条件である。

川筋からは縄文・弥生の船着場の遺構や丸木舟が出土し、古くからの水運の盛況を伝えている。

また、志高、有路、下天津、福知山津、高津湊、綾部大島堰といった、かつて賑わったという川湊の地名が残されている。

 

さて、一行は由良湊を出発して、由良川を遡る旅を続けた。一行の時代にもこれらの湊は開かれていたのだろうか。もしかしたら錨泊地として辿ったのかもしれない。

緩やかな由良川であるが、やがて山間地に入って、遂には、淀川水系との分水界に達する。河口から分水界までは約80kmである。いずれ、船を降りて分水界を越えなければならない。一行はどこまで遡ることが出来たのだろうか。

通船可能な河川勾配は1/300であるという。江戸時代には通船があったとされる河口から約50kmの高津湊(現在の綾部市)付近の河川勾配は1/1000でしかない。まだ十分に緩やかである。更に25kmの、支流の高屋川に入った黒瀬(京丹波町)になると河川勾配1/300になる。この辺りが舟運の限界であろう。
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実際、江戸時代には、支流の高屋川の黒瀬まで川船を通して、淀川水系と繋ぐ、”日本海・瀬戸内海連絡由良川回廊計画”が幕府へ繰り返し申請されたという。

黒瀬は、現在の山陰本線下山駅の真下の集落で、由良川支流の高屋川が緩やかに流れている。

由良川を遡ってきた一行は、支流の高屋川に入って 黒瀬集落に着いた。この先は由良川水系淀川水系の分水界である。集落は由良川の終点であり、分水界を挟んで、淀川水系への入り口でもある。 

卑弥呼の都への水行陸行(7) 丹波国から邪馬台国へ

一行は竹野潟湖の朝を迎えた。残るは陸行1月である。陸路丹波国を進んで邪馬台国を目指すことになる。港と港を結ぶ海路に比べ、複雑である上に、それを想像する手掛かりに乏しい。それらしい断片を頼りに、空想の旅を続けよう。

湊には、底の浅い丹波の国の船が繋がれている。川筋をたどる旅に備えてのことだ。魏の国からの品々は昨夜のうちに積み替えられた。船出のための儀式が行われると、舫いが解かれて、船団は静かに港を離れた。この日の目的地は上流20kmの大宮である。

広々とした潟湖を棹を差して進んだ船団は、やがて竹野川に入った。水手たちは備えられた引綱を持って、川に飛び込んだかと思うと、両岸に上がって綱を引き始めた。梶取が棹を操って導いていく。船は曳かれれながらf:id:afterglow0315:20180802204501p:plain、楽々と流れを遡った。

岸の土手には綱道が続いており、その先には稲の苗が見渡す限り青く伸びている。

船は、広々とした平野を進んでいたが、やがて川幅が狭まり、しばらくすると、水深も浅くなって、船底が今にも川底に着かんばかりになってきた。いよいよ遡行もこれまでかと思われた頃に大宮の港に着いた。日はまだ高い。                      

江戸時代に淀川を航行した「三十石船」は、三十石の米を積むが、客船としても、大阪と京都を結んでいて、船頭と水主4、5人と、約30人の客を乗せて、淀屋橋を早朝に出発して夕方には伏見に着いたという。距離は45km。一部は棹を差すが、殆どは綱を引いて遡ったという。おおよそ時速4.5kmになる。弥生の曳舟も変りはないだろう。

大宮は丹波国の都峰山から少し上流の水戸谷峠越えを控えた要衝の地である。水戸谷峠越えは、丹波国の本拠地である竹野川流域と、後に開かれた、野田川、由良川桂川の流域の広大な領地を結ぶ、最も大切な道路なのだ。

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さて翌朝になってみると、昨日の到着時には浅かった大宮の湊の水深は、一夜のうちに、胸元までの深さになっている。

川幅が狭いその場所に堰が設けられて、夜の間に水がせき止められたのだ。

水深が増せば船は更に先へと進むことが出来る。

亀岡市大井町の北金岐遺跡で発掘された“大溝”の調査報告によると;

溝は幅は9mで長さは55mの人工のもので、周囲からは、板材、立杭、丸太、栗石など、堰に用いたと思われる材料や田舟と思われる丸太の刳り舟が出土した。大溝は集落と水田を結ぶ水路、堰は灌漑や水路の水位調節のためのもの、田船は農耕の物資を運ぶものとされている。

亀岡市大井町は、これから辿る桂川大堰川)の川沿いに位置しており、遺跡の年代もこの旅と同時代の弥生後期である。一夜限りの堰が船の遡行にどれだけ役に立つかは怪しいが、たまたま目にした発掘の記事に触発されて想像を膨らませた。一行の旅はどうであったろうか。

臨時の堰のおかげで、船はしばらく竹野川を遡ったが、ほどなく水戸谷峠の登り口に差し掛かった。川幅は狭く流れも浅くなった。いよいよ船は川から離れて丘舟になる。船が山を越えたという言い伝えは多いが、丘舟がどのようなものであったかは定かでない。山を越えた
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先が、再び舟運ということであれば、船をそのまま峠の向こう側まで曳くのが、合理的であるように思われる。地形が許せばだが・・。

現代の地図から推測すると、水戸谷峠越えは、大宮側からは登りが距離4km、標高差10m、下りが距離2km、標高差40mである。舟を曳くには問題なさそうに思われる。

それでは想像の丘舟である。船には長い頑丈な引綱が結ばれ、大勢の人足が引綱に取り付いた。船は、柴が厚く敷き詰められた浅い窪みの中へ導かれると、掛け声とともに、ゆっくりと、そして難なく、するすると柴の上を滑って峠道を登り始めた。敷き柴の世

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話が専門の係りの者もいる。柴道の擦り切れを補充したり、滑りを良くする杉や松の青葉を咬ませたりするのだ。

峠を下り終えると、目の前が阿蘇海である。

当時は阿蘇海は内陸に深く入り込んでいたのだ。

そして海への出口であるその場所には弥刀神社が祀られていた。弥刀は水戸であり、水戸は水門で湊である。水戸谷峠越えの道は阿蘇海の港に繋がっていたのだ。

かつては、阿蘇海が弥刀神社の石段の下までを満たしており、舟運が盛んな地であったと伝えられる。
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弥刀神社は今も野田川の段丘上に残るが、阿蘇海は遠く後退して、家並に隠れて見通すことはできない。

かくして丘船は峠を越えて阿蘇海の水戸の港に浮かんだ。

阿蘇海は宮津湾の入り江が南北約4kmの天橋立の砂洲によって仕切られた潟湖で、西の潟尻から野田川が流入し、砂洲の南端の狭い開口部で外海の宮津湾とつながる。砂洲の北の端は陸地に繋がっていて、一帯は天橋立北浜と呼ばれ、後にこの地に丹後国府が置かれたことから、府中とも呼ばれる。

船団は阿蘇海を進んで、天橋立北浜の真名井原の港に入った。真名井原は信仰の地である。そこに座する
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磐座には自然の力が籠ると信じられ、

縄文の昔から、畏敬と祈りが捧げられてきたという。それは丹波国に受け継がれ、今に伝わることになった。

真名井原には、今も真名井神社、籠神社が祀られ、籠神社は元伊勢神社、丹後一宮とも称される。そこには自然信仰から神話信仰への変遷の歴史が秘められている。

神話の神々を祭神として祀るこれらの神社の創祀は、この旅の時代よりさらに後世のこととされる。そして磐座は今も昔のままに鎮座している。一行を迎えた丹波国真名井原の祭祀はどのようなものであったろうか。

天橋立を越えて宮津湾を渡れば由良川河口である。

 

 

猛暑の中でキス釣り   

宮津湾の日置漁港にキス釣りに出かけた。漁港の入り口に駐車場があって、車が4~5台止まっている。集落が管理していて有料と聞いていたが、この日は無料だった。目の前がすぐに海岸で、防波堤を挟んで、北側が海水浴場、南側が漁港になっている。すぐそばから子供たちの元気な声が響いている。

漁港は小さいので、防波堤も短い。一投目から当たりがあって、型は小さいがダブルで上がってきた。久しぶりの感触だ。投げるたびに掛かる。最初から入れ食いになって、ほとんどがダブルで素バリがない。防波堤の内側も外側もどちら側も変わらない。ただ型は10㎝前後のピンギスサイズばかりだ。

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そのうち大物もと期待するが、そんな気配は一向にない。夏場のせいで型は無理なのだろう。

こうなると釣りを楽しむというよりは、反復作業という感じだ。中々釣れない中で釣り上げるのが醍醐味だろうなどと、勝手なことを思ってしまう。

潮時は16時でその前後の1時間余りで20匹越えの釣果になった。日が傾いて強い日差しが真横から当たりだした。丁度、中学生ぐらいの子供たちがやってきたので、残りのエサをあげて終わりにした。

去年を反省して、今年は、天気が良くて、波が穏やかな、大潮の日だけに出かけることにした。連休明けからがキス釣りのシーズンだが、条件が揃うことが中々ない。結局のところ今日が今年初めてになった。猛暑の方は、しっかり準備して大丈夫だったが、海の方は、豪雨の濁りが残って青い夏の海とは行かなかった。残念なのはピンギス釣りになってしまったことだ。

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シロギスは1年で10㎝、2年で18㎝、3年で21㎝とされ、最大の30㎝くらいには8年はかかるという。

小さいのは年中釣れるが、20㎝以上の大物は、産卵期の梅雨時と晩秋の頃とされる。

これまでの経験でも、大物が釣れたのは梅雨時の蒸し暑い頃だ。時期が合わないと仕方がない。

こんがり美味しそうにフライが揚がった。小さいと手間がかかって大変だが味は変わらない。有り難く頂戴することにしよう。

 

空調作業服がクール! 部屋のクーラーを買い替えた

部屋のクーラーがガタガタしだしたので買い替えた。たまたま熱暑が始まる直前の注文だったので1週間後の設置になった。それが今日の午前のことで、取り付け作業の若い人がやってきた。次の日だと1月待ちでしたねとは彼の話。

暑い盛りのことで大変だろうなと思いながら作業を見ていた。取り換えだけで、サイズもぴったり、追加工事は不要で1時間ぐらいで終わった。作業のあいだ聞きなれない音がずっとしていたが、取り付けの工具の音だろうと思っていた。

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冷たいジュースを飲んでもらいながら、作業終了の手続きをしていると、相変わらず例の音がしている。

ふと見ると、彼の作業服の脇腹に、一瞬、蚊取り線香を付けているのかと勘違いするような、グリッドのカバーがついた円盤状のプラスチック部品が装着されているのに気がついた。

それは空調作業服というもので、外気を取り込んで、体の汗を、空気の流れで蒸発させて、外に排出して、体温を下げる仕組みになっているとのことで、今では屋外作業には欠かせない大ヒット商品になっているという。彼によれば、これを着ると非常に快適で、以前は大変だった夏場の作業が苦にならなくなったとのこと。バッテリーは10時間ぐらいは持つので実用性は十分で、夕方に切れると困るが、大いに助かっているとのこと。

調べてみると、充電器込みのセットで15,000円ぐらいからある。便利で役に立って、値段も手ごろで素晴らしい。感心したので記事にしたが、家族によれば、TVでやっていたからみんな知っているよ!とのこと。しかし、実際に、彼に会って、この製品のことを知ったのは嬉しいことだった。