残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

梅雨明け10日  暑さでもポトスは元気一杯・Walkingは熱中症に注意  

梅雨明け10日とはよく言ったものだ。今年も例年通りのカンカン照りだ。きょうで10日目。晴天はもう少し続くという。暑さの中でも我が家のポトスはますます元気。さすがに熱帯生まれ

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の夏の子だ。ツルを両手を広げるように伸ばしている。元気づけられる。

ウオーキング熱中症に厳重注意が必要だ!

頭も首も濡れタオルでしっかり覆って、防御の体制を整えて出発する。 

タオルが濡れている間は暑さ知らずでむしろ快適だ。

折り返しの公園までの40分は何とか持ってくれるている。

公園の水飲み場で、顔を洗って、ひと呼吸。水はいつも少し出っぱなしにセットされているので、衛生的で冷たい。乾いたタオルを十分に濡らしてから引き返す。お昼前の、暑い盛りのこの時間は、道路も公園もさすがに人気はない。

通り道の歩道脇で、以前からやっている水道施設の工事が完成間近になっている。工事の関係者らしい人がいたので挨拶がてらに話を聞くと、設備はこの先で開発している企業用地へ供給する水のためのもので、水は遠くの箕面市の設備から高圧で送ってくるので、この設備で圧力を下げるのだという。なるほど水も電気と同じなのかと勉強になった。

空はどこまでも真っ青で恐ろしいくらいだ。熱暑もそのうち落ち着くだろう。昨年も同じで、猛暑が早くやって来たが、8月に入るとすぐに涼しくなってしまって、残暑はなかったように思う。今年も帳尻を合わせてくれるだろうか。

 

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卑弥呼の都への水行陸行(6) 丹波国の道

一行の旅は、ここ丹後竹野から卑弥呼の都纏向まで、残すは陸行1月となった。現代の地図からすると、その距離は、おおよそ230km。1日あたり約8kmになる。東海道の旅人は時速3.4km、東海道山陰道の宿場は約9km間隔である。1日8kmの陸行は十分に余裕がありそうだが、実際はどうだろう。

竹野の港に上陸した一行は、潟湖のほとりの館に案内された。丹波国の首長と挨拶を交わした後、長旅への労いを受け、続いて歓迎の宴となった。見知らぬ異国の話しは、互いに興味が尽きることがなかった。丹波国の人々は、この国に伝わる建国の昔話を口々に語った。明日からの旅は、その建国の足跡をたどることになるという。

遠い昔、500年も前、この地、竹野潟湖のほとりに稲作が伝えられた。伝えた人物は今の首長の遠い祖先にあたるという。それで首長は今も厚い尊敬を集めているのだ。

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その人物は、種もみ、農耕具、栽培知識などを携えて、家族とともにやってきた。

最初の年こそ小さな水田ではあったがそれでも十分な収穫を上げた。

人々はこぞって教えを請い、稲作に加わり、水田は瞬く間に大きくなった。集落の人口は増え、水田はさらに拡大が必要となった。竹野潟湖に繋がる竹野川は緩やかで、川沿いは稲作の適地に恵まれ、中流域には広大な峰山盆地が広がっていた。水田は、竹野川を上流に向かって、年ごとに拡大し、次々と、新たな集落ができた。

見よう見まねで稲作を試みるものがあったが、それが成功することはなかった。知識と技量に加えて、人々を結集し統率する力が必要であった。水田の拡大には厳しい労働が必要であった。秋には1年間の苦労に見合う収穫が得られなければならない。彼は、多くの困難を克服し、それを成し遂げ、信頼と尊敬を得た。

稲作は、竹野川の上流域までに達し、更に、隣接する野田川流域へと広がった。長い年月のうちに、丹波国の河川の全ての流域に稲作が行き渡り、遂には、山城国との国境の保津川峡谷と老ノ坂峠に達し、そこが丹波国の終点になった。かくして500年後の今日、丹波国の全域は、今も、その子孫たちが治めることになったという。

 

丹波国には地形の条件が大きく幸いしている。丹波国を流れる竹野川、野田川、由良川大堰川(=桂川)は、何れも、流れが緩やかで、中流域には、それぞれ、峰山盆地、加悦
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盆地、福知山盆地、亀岡盆地が開けている。

これらの河川は低い分水界や海路によって互いに繋がっている。

竹野川の河口から、野田川ー宮津湾ー由良川桂川とこれらの河川を繋いでいくと、一筆書きで、山城国の国境に達することが出来る。水戸峠と胡麻平原の2か所の分水界で流れは途切れているが、この部分を陸路で結べば、丹波国は、ほぼ全域が舟運で移動できることになる。馬も車もないこの時代、内陸部での運搬・移動には舟運が第一の選択肢であった。丹波国は、稲作の適地と内陸の水運に恵まれていたのだ。

丹波国を縦断する舟運水路は、山城国に入って、邪馬台国纏向に繋がっている。その経路は、峰山から福知山は京都丹後鉄道、福知山から京都はJR山陰本線と、竹野ー峰山の未通部分と宮津ー由良河口の海上路を除けば、鉄道路線と同じである。遥か昔丹波国と纏向の結んだ幹線道路は、現代の鉄道路線と不思議なほどに完全に一致している。自然の地形は理にかなっているということであろう。

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異なる水系を隔てる境界が分水界であるが、

丹波の分水界は、地形が緩やかで、標高も低い特徴がある。

竹野川水系と野田川水系の境界の水戸峠は谷中分水界と呼ばれ、

由良川水系桂川水系の境界の胡麻平原は平地分水界と呼ばれ、

標高は、各々 53mと210mしかなく、特異な分水界とされる。

川船が運行可能と思われる上流の地点とこれらの分水界との標高差は、更に低く、15mと90m程度であり、距離も5kmしかない。陸路で超えるのは容易であろう。因みに、この2つの分水界を、現在は、鉄道が通っているが、トンネルなどはなくて、溝状の窪地を普通に走っていて、そこが分水界であるとは感じさせない。

さて、丹波国の説明が長くなってしまった。本題の旅であるが、これから先どれくらいが舟旅であり、どれくらいが徒歩になるのだろうか。船の輸送力は圧倒的なので、その活用のためには、ありとあらゆる工夫と努力がなされたであろう。様々な舟、吃水の浅い平船、底が頑丈な丘曳舟、河川航路の整備・開拓、堰による閘門、遡行の技術、川港、船着き場など・・。舟運航路の推定はしては見たが、この時代の川船の実際の運航については知るすべはない。

のちの時代の河川舟運についての記事によると、機械動力によらない船の場合、通船が可能な限界は、河川勾配300分の1以下とあった。必要なデータは標高と距離だけなので、通船可能な範囲が簡単に計算できる。結果を、機械的に適用すれば、次のようなことになる(河川の整備状況や遡行のための牽引道などすべて無視。以下にいう舟運可能とは、河川勾配300分の1以下である範囲と言い換えるのが実際には正しい。亀岡~纏向については、土地勘がないし、未だあまり考えていないのが正直なところ。できるだけ納得のいくものでありたいが、想像譚であることに変わりなし!);

竹野から纏向までの全行程は230km。その内丹波国内の竹野から亀岡までが166kmで内135km(80%)が舟運可能。丹波国外(山城・大和)の亀岡から纏向が65kmで内40km(60%)が舟運可能。全体では、合計230kmの内175km(76%)が舟運可能という結果になった。舟運の割合が想像以上に大きい。これだけ舟運が多ければ、陸行の旅も少しは楽かもしれない。

さて一行は、明日からは、丹波国の道を行くことになる。 

夏空・梅雨明け  水植えのポトスを植え替えた

大雨がようやく収まった。今朝は夏空が戻ってきた。素晴らしい青空だ。それにしても地震に続いての豪雨。自然の威力を思い知らされた。青空も素直に喜べない。


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関東の早い梅雨明けの後、だいぶ待たされていたが、当地でも梅雨明けの宣言となった。

例年より早い梅雨明けという。春には史上最速の桜の開花もあった。今年は季節の歩みが速い。

先日、家族でスタバに行った。月遅れの誕生祝いをコーヒーとベーグルでしてくれるという。

バースデイケーキはいつも通りだったのに、どうしたことかと思っていたら、帰りに隣のインテリアショップに立ち寄った。スリッパを買うという。それが目的だったらしい。

ぶらぶら暇をつぶしているうちに、気に入ったガラスのポットを見つけた。水植えしているポトスの容器を大きいものに替えたいと思っていたのだ。

f:id:afterglow0315:20180709191636j:plain帰ってから、早速、ポトスを植え替えた。

植え替えといっても、ポットを取り換えるだけのことだ。

水植えは土を扱わないので、手間は掛からないし、汚れることもない。身近に置いて世話ができるし楽しめる。

園芸初心者の小生にはにはもってこいだ。手軽で清潔で気に入っている。

小さい2つの容器で育てていた2つの株を、ひとまとめにして新しいポットに移し替えた。2つが1つになったせいだろう、これまではひ弱な感じだったのが、少しばかり豪華になって、なかなか見栄えが良くなった。夏本番を迎えて元気に育ってほしい。 

卑弥呼の都への水行陸行(5) 丹波国の港

出雲国の美保関を出港して水行10日。いよいよ丹波国である。穏やかな初夏の日本海を進んで一行は丹後竹野潟湖の港に到着した。

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河口の段丘上の大成古墳群からは竹野川が一望できる。

しかし丹波国に繁栄をもたらしたかっての竹野潟湖も竹野の港も今は砂に埋もれてその姿を窺い知ることはできない。

船着き場を思わせる僅かな石積の遺構が今に残る痕跡であるという。

この丹波国の港から卑弥呼の都纏向までは陸行1ヶ月を残すのみである。

その陸行はどのようなものだろうか。想像を巡らせて辿ることにしよう。

一行が旅した西暦240年は弥生終期。この地に稲作が伝わってすでに500年である。竹野川河口域から始まった稲作は、今や丹後半島から山城国境に至る広大な丹波全域に行き渡った。加えて、渡来の人々がもたらした先端技術によって、鉄、水晶、ガラスの貴重な加工品の大生産地へと発展していた。出土した豪華な首飾りや腕輪は今も青い光を放っている。その輝きは弥生の人々の心を捉えたという。丹波国は弥生の先進国として最盛期を迎えつつあった。

丹波」の古名は「太迩波(たには)」で、その由来は「田庭」すなわち「平らかに広い地」とのことである。山がちな地域という丹波に対する現代のイメージとはかけ離れている。しかし、大陸に開かれた良港、稲作の適地、それらを結ぶ水運、丹波は弥生における発展の基盤に恵まれていた。古代の人々にとって、丹波は、その名の通り「平らかに広い地」であったであろう。

かくして、丹波国は、今や、先進の筑紫、出雲や新興の邪馬台国と肩を並べる倭国連合国の有力な一員であった。同時に、隣接する邪馬台国とは密接な交流を持つことになり、ついには婚姻・血縁の関係を持つまでに、特別な関係を深めていた。有名な開化天皇と丹後大県主の娘の竹野媛の婚姻など、ヤマト政権成立期の天皇と丹後の媛との婚姻記事が古事記日本書紀に数多く記録されている。ヤマトの王子たちは青い宝玉に身を飾った丹波の媛の華麗な姿に魅せられたのだろうか。そして丹波国の富が政権樹立の一役を担ったのだろうか。

開化天皇の実没年は、一説では、西暦260年頃とされる。竹野媛の婚姻は一行がまさにこの地を訪れた時期に重なることになる。華やかなその婚礼の話しを聞くようなことはあったのだろうか。

f:id:afterglow0315:20180627194414j:plain当時の婚姻はどのようなものだったのだろうか。

竹野媛の花嫁行列はこの地から大和に向かったのか。それとも天皇がこの地を訪ねてきたのだろうか。

何れにしてもその道は、奇しくも、我が一行がこれから辿る道と重なることになる。

竹野川河口近くに竹野神社がある。開化天皇の妃であった竹野媛が、年老いてのち、天照大神を祀ったのがその起源であるという。

さて一行が行く陸路はどのようなものだろうか。古代の幹線道路が開かれる遥か以前のことだ。倭人伝の記述は探険記ではなく旅行記である。立派とは言えないまでもそれなりに整備されたものであったろうか。想像の陸路を辿ることにしよう。