残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

カニと温泉と元伊勢の旅  古代丹後王国のヒロイン"日葉酢媛(ひばすひめ)"の故郷を訪ねる

カニと温泉と元伊勢を訪ねる旅行に出かけた。今年も丹後半島浅茂川温泉のいつもの宿になった。気になる雪は、暖冬の今年は大丈夫と出発したが、路肩に雪が残っている。前日の急な寒さに降雪があったと見える。宿の温泉場で一緒になった方の話しでは、舞鶴若狭自動車道では1時間ぐらいの足止めに遭ったとのこと。京都縦貫道の方は支障はなかったのだが3月半ばとはいえ安心はできないのだ。

宿の窓からは、いつもの日本海の景色が広がって見えている。宿は新館を増築したのだが、以前から利用している旧館のこの部屋で充分だ。広い和室からのオーシャンビューが素晴らしい。そのうえ部屋が空いているからと、隣室に夕食を準備してくれた。

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この地には、古代丹後王国が栄えたとされ、伝承や遺跡が多く残されている。王国は弥生中期から古墳時代にかけて繁栄の絶頂にあったとされ、それが、邪馬台国からヤマト王権確立の時代に重なっている。伝説と史実との境界がおぼろげなだけにかえって興味が尽きない。

宿の南1.5kmの町のはずれに網野銚子山古墳がある。4世紀後半~5世紀初頭に築造された全長198mの日本海側最大の前方後円墳である。その墳丘の形状が、遠く離れた奈良市北西部の佐紀陵山古墳(207m)のそれに酷似しており、両者の測量図は細部にまでぴったり一致していて、同じ設計で築造されたとしか考えられないという。

一方の奈良の佐紀陵山古墳は、垂仁天皇(第11代天皇)の皇后"日葉酢媛(ひばすひめ)"の御陵とされ、日葉酢媛は、垂仁天皇の前の皇后が薨じた後、丹波(後の丹後国)から迎えられて立后したのだという。父は3世紀末に第10代崇神天皇が支配地域の拡大のために派遣した有名な四道将軍の一人"丹波道主王"であり、垂仁天皇との間に景行天皇(第12代天皇ヤマトタケルの父)のほか2皇子・2皇女を儲けたという。

日葉酢媛が葬られた陵墓と全く同形の墳墓が、故郷のこの地に、同じ設計で築造されたということになる。墳墓の主は、一説には、日葉酢媛の弟の朝廷別王のものであるという。網野銚子山古墳は中央政権と丹後勢力との密接な結びつきを今に伝えているのだ。

自身の父が崇神天皇の直接の臣下であり、ヤマトタケル日本武尊)は自身の孫であるという、古代史のスーパーヒーローたちに繋がる女性"日葉酢媛"がこの丹後の地に生まれ育ったのだという。幼い頃の日葉酢媛もこの海を眺めたのだろうか。

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今回は、カニと温泉に加えて、二つの元伊勢神社、「皇大神社」(福知山市)と「眞名井神社」(宮津市)を訪れた。"元伊勢"は伊勢神宮の創建にまつわる不思議な物語の舞台である。ここでも"日葉酢媛"が驚きの役回りで登場してくる。

伊勢神宮内宮は、皇室の祖神・天照大御神を祀るが、その創建は、垂仁天皇と日葉酢媛の間に生まれた皇女"倭姫命(やまとひめのみこと)"によってなされたのだという。日葉酢媛は、伊勢神宮の創建者の母であるというのだ。

伊勢神宮の創建について、「日本書紀」・「倭姫命世記」に次のように語られている。第10代崇神天皇が、それまでは皇居(桜井市磯城瑞籬宮)内に祀られていた皇祖神・天照大御神を、「同床共殿」は畏れ多く、祟りをもたらしているとして、最初は皇女・豊鋤入姫命に、次いで孫娘にあたる倭姫命に引き継がせて、理想的な鎮座地を求めて各地を巡らせることにした。

二人の媛命は、理想の地を求めて、89年間に12ヶ国29か所の土地々々を巡ることになった。最後に「伊勢」に入った倭姫命は、"辺境ではあるが美しい国なのでこの国に鎮座しよう"という天照大御神の神託を得て、この地に皇大神宮伊勢神宮内宮)を創建し、その鎮座を果たしたのだという。倭姫命は、伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女であり、これが後に制度化される「斎宮」の始まりになったという。 

元伊勢とは、倭姫命が、託された天照大神御神体である八咫鏡を奉じながら、各地を巡ったときに、その時々に、一時的に御神体を祀ったとされる場所のことで、伊勢神宮が元あった場所という意味になる。最初の遷座地「笠縫邑(大和)」の33年間に続き、2番目の遷座地として「吉佐宮(丹波)」に4年間の滞在があったという。

因みに、吉佐宮は=よさのみやで、のちの地名「与謝郡」に繋がる。与謝野鉄幹の与謝野姓は、同地の出身であった父が名乗っていたことによる。

さて、今回は、「吉佐宮」であるとの伝承を持つ、二つの元伊勢神社、皇大神社と眞名井神社を訪ねた。丹波(のちの丹後)にはこれ以外にも、竹野神社(京丹後市)と笶原神社舞鶴市)が吉佐宮、即ち元伊勢であるとの伝承を有している。吉佐宮に対する四つの元伊勢の伝承は何を意味しているのだろうか。

皇大神社は、京都縦貫道の舞鶴大江ICから西へ10km/10分。鬼退治で有名な大江山山麓にある。どうしてこんな山中に?と思ったが、宮川という小河川が神社の麓から流れて由良川に注いでいる。由良川は古代丹波国の舟運幹線路である。近くを京丹後鉄道が走っていて大江山口内宮という駅がある。麓の集落の入り口に駐車場があった。

車を止めて神社に向かった。参道であったと思われる道沿いには、家々が続いていて、かつての賑わいを思わせる。家並みを抜けて石段を上ると、皮を剥いただけの素朴な丸太作りの鳥居が迎えてくれた。皇大神社である。10分もかからない。境内の中央には大きな杉の木が聳えている。昨夜の雪だろうか、溶け残った雪を被って、屋根も鳥居も石段も木立も白い。冷たい空気と白い雪の中で辺りは静まり返っている。

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参拝を済ませると、社務所に人影が見えた。無人ではないのだ。ここでのお目当ての日室ヶ嶽の遥拝所の場所を教えてもらった。日室ヶ嶽は有名なパワースポットなのだ。境内から左手の道を進むと石組みの遥拝所がすぐに見えてきた。

あいにくの天気で、御神体とされる日室ヶ嶽のピラミッドはちょうど半分が雲に隠れている。それでも十分に素晴らしい。古来からの人々の祈りの対象であり、今も人々に不思議なエネルギーを与えている。納得して駐車場へ引き返した。300円と小さい張り紙がしてある集金箱にお金を入れて、次の眞名井神社に向かった。

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眞名井神社は、有名な丹後国一之宮・籠神社(このじんじゃ・別称「元伊勢籠神社」)の奥宮である。天橋立の砂洲の付け根の風光明媚な地である。社伝によれば、もともとは眞名井が「吉佐宮」の地であり元伊勢である。籠神社は、眞名井の地から遷座して創建されたのだという。結果、籠神社が「元伊勢籠神社」と称され、眞名井神社がその奥宮という訳なのだ。ということで、元祖、元伊勢である眞名井神社を訪れた。

眞名井神社は奥宮の名の通り、籠神社の奥にある。有名な籠神社は、天橋立のケーブルカーの乗り場に隣接することもあって、いつも賑わっている。神社には、専用の駐車場があり、30分無料なのに、いつも空いている。客引きさんが、手前のケーブルカーの駐車場を案内しているからだろう。参拝だけならこちらでいいのだが・・。

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籠神社の無料の駐車場に車を止めて、そのまま奥の方に歩くと、10分ぐらいで、眞名井神社が見えくる。最初の鳥居は、左右の柱の間に、紙垂を垂れた注連縄が張られただけのものだ。古い時代の鳥居の形式であるという。それをくぐって、さらに進むと、今度は榊を飾った白木の大鳥居である。これをくぐると本殿。参拝をすませた。

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本殿の右手に小さい参拝所が設けられている。注意しないと見落としてしまいそうだ。ここが実は、この日の目的地である。参拝所は透かしになっていて、本殿の奥の神苑を見通すことができるようになっている。そこに鎮座するのが真名井神社御神体の磐座である。紙垂で飾られたしめ縄が何重にも巻かれて、どっしりとした迫力で鎮座している。古来、自然への畏怖と祈りをささげる神聖な場所とされてきたのだ。現代においても、変わらず、人々の願いを受け止めてくれている。古来から受け継がれるパワースポットなのだ。素晴らしい磐座の姿を拝むことができた。境内は撮影禁止である。駐車場に帰ると30分を少しオーバーしていたが、出口の料金所の表示は無料であった。

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ということで丹後の元伊勢の二社巡りを終った。それぞれに伝わる古来からの崇敬の対象であるという山体や磐座に出会うことができた。想像以上に素晴らしいものだった。それらは、多分、崇神帝による遷座巡幸の時代よりも遥かの昔からそこに鎮座したことだろう。89年を費やしたという巡幸にはどのような思いや出来ごとが秘められているのだろうか。そこには確かな意図が込められているに違いないのだが・・。

崇神天皇は実在が確かとされる天皇だそうです。とすれば"日葉酢媛"も"倭姫命"も王家の媛たちとして活躍したことも確かなことなのでしょうか。遷座巡幸の物語には、造作・潤色もあるが、史実に基づく部分もあるとされています。できればもう少し確かなことを知りたいものです。

神代・上代について実年代の推定がさまざまに行われています。古事記日本書紀が記述する和暦年代を、西暦表示の実年代に変換するというのです。これができれば素晴らしい。古代史の謎が晴れるでしょう。残念ながら確定したものはありません。

ここでは一例として、「古代史の復元」(www.geocities.jp/mb1527/index.htm)に主張されている推定年表を用いて、ヒロイン"日葉酢媛""倭姫命"の活躍の実年代を推定してみることにします。年表の提唱者によると、神代・上代については「1年2歳論」を採るべきとのことです。とすれば、遷座巡幸が89年を要したとの記述は、実年数は44.5年ということになります。確かに、二人の女性で89年は長すぎると気になっていたことなので、妥当な論と納得させられた。以下に主な事由についての結果;

西暦244年 崇神天皇即位

西暦250年 崇神天皇の娘の豊鋤入姫命遷座巡幸を開始

西暦278年 崇神天皇崩御垂仁天皇即位

西暦285年 日葉酢媛立后

西暦291年 日葉酢媛の娘の倭姫命が神託を受け伊勢神宮を創建

西暦298年 垂仁天皇崩御景行天皇即位

西暦303年 景行天皇の子息の日本武尊 熊襲征伐

西暦311年 日葉酢媛崩御

ヒロインたちの西暦による活躍の年代がこのように推定できた。しかし、倭姫命は日葉酢媛と垂仁天皇の間の娘なので、伊勢神宮創建時は、随分と幼年ということになってしまう。推定に無理があるのか?あるいは幼女にそのような役割を託すことがあったのだろうか?いずれにしても、西暦年代を当てはめることで、かなり身近に感じることになった。

折角なので同時代の関連の事件の西暦実年代を勉強。同推定年表によれば;

西暦83年 大和朝廷誕生。神武天皇即位。

西暦184年 倭の大乱終結卑弥呼を共立。

西暦185年 倭迹迹日百襲姫命 大物主神妻になる。即ち女王卑弥呼の誕生。

西暦190年頃 纏向首都建設。

西暦239年 - 卑弥呼魏に遣使。

西暦248年 日食・八咫鏡を制作。

西暦250年卑弥呼没す。西暦266年 箸墓古墳完成。

時代は弥生終期から古墳時代へ。神武即位から箸墓完成までの約200年間。女王卑弥呼が活躍し、それに続くヤマト王権の覇権確立の時代であった。なお、推定年表では、魏志倭人伝にある「卑弥呼」は記紀における「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」であり、また「邪馬台国」は大和朝廷であるとしている。

啓蟄の天気は不安定  樹木ウオッチ(7)シラカシ

きょう3/18は72候の啓蟄末候の最終日。啓蟄の末候は「菜虫化蝶」と表される。その心は"菜の花が咲いて春本番を迎え、青虫が紋白蝶になる頃"というが、このところ不安定な天気が続いている。暖冬傾向のまま春が来るかと思ったが、次々に低気圧がやってきて、先日には、急な寒の戻りの時ならぬ降雪もあった。それでも庭のサクランボの花芽は膨らんでいる。季節の歩みはペースダウンしながらも前に進んで明日からは春分になる。

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 住宅街の道路わきの小さなスペースに、幼木だが中々立派な姿のシラカシを見つけた。以前アラカシを記事にしたので、仲間のシラカシを見つけようと気をつけていたのだ。大きいシラカシには出会わないのでこれで記事にすることにした。

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シラカシ

常緑広葉の高木。

アラカシと並ぶ最も普通のカシの仲間。

里山や山地に自生。庭木、生垣、街路樹にもよく見る。

材は堅く白っぽい ことから「白樫」。建築材、器具材に 利用される。

樹形:幹は直立。枝は上に伸びて、全体にスッキリして繊細な感じ。ずんぐりしした印象のアラカシとは対照的。

樹皮:なめらかで灰白色。

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 葉: ほっそりして先が尖った卵型。⇒⇒

細かい鋸歯が葉の3分の2ほどにある。

  

 アラカシの葉は、シラカシよりも、丸みのある細長い卵型で、先は尖っていない。荒くて大きい鋸歯がf:id:afterglow0315:20190318170107p:plain

葉の2分の1ほどにある。⇒⇒⇒

 

葉の形の違いが、シラカシとアラカシを見分けるポイントになる。

 

 

 

ミツマタが満開です。青貝山の谷あいを埋める見事な群生です。山歩きの記録(6)

青貝山のミツマタが満開になりました。先々週に一度出かけたが早すぎだった。今日あたりは見頃だろうと再度挑戦。黄色い花が小さい谷筋をいっぱいに埋めて咲いています。朝方に降った雪が白く残っている。寒の戻りの気になる天気だったが、回復傾向で大丈夫な日和になった。

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1年ぶりに山歩きを再開。昨年の5月に足の裏をケガ。x線検査でも原因不明、結局、山歩きは4月の大船山だけで終わることになった。ということで、今年3年目の山歩きは、先ずは、近くの青貝山のミツマタ群落探訪で足慣らしというわけ。

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場所は北摂妙見山地の青貝山山麓。自然の中の群生地です。大阪市内から電車で50分(妙見口駅)+Walkingが60分の手軽なハイキングスポットです。健脚派であれば、足を延ばして、青貝山(391m)や天台山(694m)の登山も計画できると思います。

群生地のことは地元の観光パンフレットで紹介されているが、山中を歩くことになるので、服装や履物、地図など、それなりの準備が必要です。迷いやすいです。

行程図国土地理院地図を使用)

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往路:

吉川峠妙見口駅から30分) 三叉路 中央の舗装林道を下るー(5分)ー

 B天台山31の標識で左側の山道に入る。檜の植林を進むー(5分)ー

 C天台山32の標識 右方向に直進ー(10分)ー

 D天台山33・トンボの辻標識 右方向に直進ー(10分)ー

 Eトンボ池2・火の用心の標識 右方向に直進ー(10分)ー

 ミツマタ群生地 目的地到着(吉川峠から40分)

復路:帰りは来た道を引き返す。

青貝山に登るときは;行程図の⇑F地点の青貝山1の標識から谷川方向へ降り、道標に従って山頂まで往復する。青貝山1の標識から山頂まで35分です。

スダジイを知っていますか?   樹木ウオッチング(6)スダジイ

スダジイはシイ(椎)の正式和名です。身近な樹木ですが「スダジイ」という奇妙な名前です。その由来について諸説はあるものの定説とするものはないそうです。

そこで解明に挑戦;先ず「スダ」の意味を調査。小学館日本国語大辞典に"「スダ」は植物「ウラジロ」の異名"とあるのを発見。正月飾りでお馴染みの、裏が真っ白なシダが「スダ」。「スダジイ」は、葉の裏が白いのが特徴の「シイ」です。故に「スダ」+「シイ」=「スダジイ」では?中々いい感じですが果たして・・・。

椎の木と言えば、童謡「お山の杉の子」を思いだします。何故か、椎の木とこの歌が強く結びついています。

"昔昔の、その昔~♬ 椎の木林のすぐそばに~♪

 小さなお山があったとさ~、あったとさ~♬"

"丸々坊主の はげ山は いつでもみんなの 笑いもの~♬

 これこれ杉の子 おきなさい  お日さまにこにこ 声かけた~ 声かけた~♬"

歌詞はこのあと、"大きい椎の木からチビッ子と、からかわれていた小さい杉の子は、大きく育って、椎の木林に負けない、立派な杉山になった"と続きます。懐かしく思い起こされる方も多いかもしれません?

YouTubeで聞いてみようとしたところ、この歌は、元々は戦時中の戦意高揚の歌だったものを、戦後になって、子供たちの健やかな成長を願う歌詞に書き換えられたものだというのです。子供たちが元気に成長するように願う歌、とばかり思っていたのでびっくりでした。視聴されたら如何でしょう。お勧めです。

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さて本題

スダジイ";

常緑広葉樹。

樹街路や公園樹によく見かけます。大きく立派に育ちます。

樹形:

大きく広げた枝が、曲がりくねりながら、高く伸びて、ブロッコリー状の樹冠を形成して、堂々とした姿になります。

樹皮:暗褐色。表面はデコボコして荒く、深い裂け目が縦状に入る。

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葉 :表は光沢のある緑。裏は白っぽい。先が尖った卵型で長さ5~10cm。ゆるい波状鋸歯がある。葉脈は羽状脈。

果実:樹種の判別の大切な手掛かりだが、今の時期ではお目にかかれない。今度の秋の楽しみとしよう。