残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

卑弥呼の都へ水行10日陸行1月(3) 不弥国の神湊

九州末盧國に上陸した一行は、伊都国、奴国と九州北部を陸行して不弥国に到着した。ここから再び水行して卑弥呼の都を目指すことになる。次の目的地は水行20日の投馬国である。

1日目の水行を再現してみる。1日の航行は20kmなので、目的地は20km先の港である。出発地不弥国の港を神湊とすれば、1日目の目的地は遠賀川河口の岡湊ということになる。現在の福岡県芦屋町である。古代から大陸との交易や軍事の港として栄えてきたとされ、古事記日本書紀にも崗之水門や岡の津という地名で現れる。記紀といえども記されたのは卑弥呼の時代からすると460年もあとのことである。この頃の神湊や岡湊のことは想像を巡らせるしかない。

船団は早朝の海を漕ぎ進んで、昼頃には、遠くに見えていた岬を回り込んだ。隣国の海岸が見え始めて、海辺に白い煙が立ち昇っている。岡湊が焚く狼煙だろう。f:id:afterglow0315:20180504202951p:plain

船団は勢いを増して陸地を目指す。

海岸の近くは危険地帯だ。

案内に繰り出してきた小舟に導かれて、船団は河口深くに入って、港に引き上げられた。

かくして1日目の航海が終わった。地図に引き直すと上図のようなことになる。この先も20kmごとに寄港地を想像しないといけないが、地図を眺める限り、特に困難はなさそうである。

これを20回繰り返すと投馬国、更に10回繰り返すと丹後国である。水行はここで終わって、卑弥呼の都へは、残る陸行1月となる。

不弥国の場所に定説はない。ここでは、魏志倭人伝の記述をたどって、奴国(福岡市)の北(方角修正)100里の海の国、現在の宗像市とその外港神湊をその地とした。

神湊は特別な場所である。九州本土が玄海灘に突き出た位置にあって、8km沖には大島があり、その大島からは50kmかなたに沖ノ島が望むことができる。朝鮮半島に最も近い地理的な条件にあり、古くから、海上交通の要衝の地であったとされる。

宗像大社-釣川ー神湊ー大島ー沖ノ島が一直線に並んで朝鮮半島に向かう古代海路は、大和朝廷では、「海北道中」と称す特別に重要な場所とされ、信仰の対象ともされてきた。有名なアマテラスとスサノオの誓約で生じた三女神の神話の舞台であり、宗像大社辺津宮)ー大島(中津宮)ー沖ノ島沖津宮)はそれぞれに降臨した3女神を祀り、今も信仰を集めるホットラインである。

宗像大社が祀る道主貴(宗像三女神=全ての道の最高神)は伊勢神宮の大日靈貴(天照大神天津神の主宰神)、出雲大社の大己貴(大国主命国津神の主宰神)とともに三柱の高貴神として格別の崇敬を受けてきたとのことである。天の神、地の神と並ぶ海の道の神への崇敬であり、古代における半島への海路に対する思いを今に伝えている。

宗像の歴史を知ったことで、宗像大社や神湊の地を訪ねてみたいと思うようになった。

中之島公園のバラ  同級会に出かけた

今日は朝から本降りの雨だ。おまけに体がだるい。ウオーキングは休まないことに決めているので、我慢して傘を片手に出かけた。いつもより少しサボって1時間ウオークで切り上げて何とかルールは破らずに済んだ。

体がだるいのは昨日の同級会の飲みすぎのせいだ。13時に集合の昼食会で2時間はアルコール飲み放題で16時前に終るのがいつものパターンだ。中之島公園のバラが見頃とテレビが放送していたので、早めに出かけることにした。会食が淀屋橋なので近くて好都合なのだ。天気も良くて気持ちよさそうだ。

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公園のバラは丁度盛りで、週末なので沢山の人でにぎやかだ。

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レトロな建物の公会堂の前では花嫁のドレスを囲んで写真を撮る若い人たちのグループもいる。公会堂は人気の結婚式場なのだ。

中之島堂島川土佐堀川に挟まれた幅が100~300m、長さが東西  3kmの細長い中洲だ。

狭い中に市役所、日銀支店、図書館、市公会堂、銀行、ホテル、美術館、科学館、企業の高層ビルなどが立ち並ぶ大阪ではハイエンドな観光スポットだ。最後の勤務がすぐ近くだったので特別に懐かしい。

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しっかり歩いて、日を一杯に浴びてからのビールとワインの飲み放題になったので、少し入りすぎた。

大学入学以来の付き合いなので、60年になる。

学生時代のこと、社会人になってからのこと、家庭のこと、定年後のこと、互いの60年を良く理解しあっている。大切で素敵な仲間だ。

 

 

 

サクランボの実がなくなってしまった

サクランボの実が色づき始めたので、そろそろネットが要るかなと思っていた矢先、あっという間に実が無くなってしまった。鳥たちの仕業だ。

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しばらく前から夜明け頃の鳴き声がうるさくなっていた。そろそろ食べ頃だろうかと集まって相談していたのだろう。

青い実や葉に隠れた奥の方だけが残っている。久しぶりに沢山実っていたのに残念だ!でも、鳥たちも楽しみにしていたのだろう。

遅くなったけどネットを掛けようかと、妻に聞くと、残りも鳥さんにあげるからネットは要らない、今年は良く実がついて、やり方が分かった気がするから、来年も沢山実がつくはず、とガッカリした様子はない。来年はネット掛けのタイミングを間違えないようにしよう。

 

卑弥呼の都へ水行10日陸行1月(2) 投馬国は出雲?

邪馬台国への旅を続けよう。その行程は、「不弥国より南のかた投馬國に水行二十日。更に、南のかた邪馬壱國に水行十日、陸行一月。」である。

不弥国に到着した一行は、卑弥呼の都に向けて出発した。次の目的地は投馬国である。水行20日を要するという。それはどのような旅なのだろうか?実際に可能なことなのだろうか?そして投馬国=出雲は正しいのだろうか?

大まかな計算をしてみる。

最初に、不弥国、投馬国の間の距離を求める。それには港の場所が要る。候補地はいくつもあるが、不弥国を福津市宗像市、投馬国を出雲とするので、どこに決めても違いは小さい。そこで不弥国の港を神湊、投馬国の港を境港とする。

2つの港の距離は、海岸線に並行して航行するとすると、約400kmである。国土地理院地図やYahoo地図の計測ツールで簡単に求めることができる。

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距離400kmで水行20日なので、1日の航行距離は20kmになる。

投馬国と丹後国についても同様に計算すると、距離は200kmであり、水行10日なので、同じく1日の航行距離は20kmとなった。不弥ー投馬ー丹後の航路について距離と日数の関係は都合よく説明できることが分かった。

それでは 1日あたり20kmの航行距離はどうなのだろうか?

不弥国の神湊、現在の宗像市神湊の沖合7kmに大島という島がある。現在はフェリーが就航しているが、江戸時代には手漕ぎ船が連絡しており、その所要時間が片道4時間であったという。とすれば20kmを航行するには、20÷7×4=11時間を要することになる。古代と江戸の手漕ぎ船の速さは比べようがないが、人力であることには違いがない。明るいうちに目視でとなれば、1日11時間の航行は妥当なところだろう。

ということで、不弥国から日本海を経て大和の纏向に向かうとして計算した結果が、倭人伝に述べられている内容とほぼ一致した。

図書館で順番待ちだった長野正孝著「古代史の謎は『海路』で解ける」の原本を読むことができた。内容は以前読んだ「生駒の神話」さんのブログの抄録に尽くされていて、結論が変わることはなかった。瀬戸内海は、岩礁の瀬戸、干満差による潮流と汐待、複雑な水路など条件が厳しく、卑弥呼の時代には航路は開けておらず、当時の船と技術では通り抜けることは困難であったとのことで、一方、日本海沿岸は、所々に潟湖があり、季節を選べば静かで、縄文時代から航路が開けていたとのことである。日本海か瀬戸内海かの重要な分かれ道を本書に教えられた。

さて、魏志倭人伝では、不弥国から先の行程が次のように記されていて、邪馬台国に到着するには、最後に1か月の陸行が控えていることになる;

南のかた投馬國に至る。水行二十日。五萬余戸ばかり有り。            南のかた邪馬壱國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。七萬余戸有り。

もし、ここにいう水行が、瀬戸内海経由であるとすれば、普通に考えると、最後は、淀川の河口付近の港に上陸して、そこから大和纏向まで、8日程度の陸行をすることになる。その場合、倭人伝の最後の1行は;「南のかた邪馬壱國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行8日。七萬余戸有り。」となったであろう。

最後が陸行8日であれば、議論の余地は少なく、邪馬台国論争はなかったかもしれない。しかし実際には、陸行一月であり、諸説が生まれることになった。