残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

卑弥呼の都への水行陸行(9) 分水界を越える

黒瀬集落に一夜を明かした一行は分水界を目指して出発した。由良川はここまでである。標高差25m、距離600mの分水界を越えれば淀川水系である。登りは緩やかで船の丘越えに問題はない。
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分水界の先には胡麻平原が広がり、桂川の支流の胡麻川が流れる。

 かつて北流して由良川と繋がっていた桂川が、地形の変化で、南流して由良川と離れて分水界を生じ、胡麻平原と胡麻川ができたという。

 

一行は、何ごともなく分水界を越えて、胡麻平原を流れる胡麻川に入った。

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胡麻川は桂川の支流で、合流までの流路長は約10km。

 

胡麻川に並行して山陰本線が走り、胡麻駅鍼灸大学前駅日吉駅が置かれ、どの駅もすぐ脇が胡麻川である。

 

胡麻川を下った一行は、殿田の湊から桂川の本流へと入った。桂川由良川と並ぶ大河である。船団は大きな流れを悠々と流れ進んだ。


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 桂川は、丹波畿内を結ぶ舟運の大動脈である。

川筋には水戸、船坂、船岡、船井など、船運の盛況を思わせる地名が今も数多く残る。

舟運の守り神として有名な船井神社の”船井”は、もとは”船居”で丹波の材木を積んで京へ下る船の停泊地の意という。

 

桂川を下ってきた一行は、殿田から25km、遂に、丹波国最後の湊である亀岡保津浜に到着した。保津浜は、隣国山城国との国境の湊であり、両国の国交・交易の中継地であり、関所でもある。
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湊には、異国からの客人たちを一目見ようと、大勢の人々が繰り出している。

湊の役人たちに迎えられて、一行は、船着き場に降り立った。

魏から運ばれた品々も慎重に船から降ろされた。

一行は、湊の館に案内され、品々も館に運び込まれた。

館には、丹波国邪馬台国それぞれの国の威儀を正した高官たちが待ち受けており、挨拶もそこそこに、運ばれてきた品々の検査が始められた。目録に照らしながらの調べは滞りなく進んで、全ての無事が確認されると、大切に届けられた目録が、丹波国から邪馬台国に引き渡された。旅の引き継ぎの手続きと儀式が完了した。

その場の空気が緩んで、安堵に変わった。長旅へのねぎらいや、無事を喜び合う言葉が一斉に飛び交った。丹波の国の人々は長旅の様子を語り、邪馬台国の人々は大国らしくこれから先はもう何も心配はないと話した。そして魏の客人は、手厚いもてなしと旅の無事への謝意を述べた。送別と歓迎の宴が始まった。

人々はどのようなことを話し合っただろうか。空想を巡らせよう。この旅の時代、西暦239年、邪馬台国は、倭国連合の盟主としての地位を固め、更には、統一王朝への野望を抱きつつあった。現に、この地では、既に山城国を既に配下に従え、保津浜の湊を差配している。一方、丹波国は、保津峡と老ノ坂峠の固い要害に守られて、王国の独立を保ち、同時に、邪馬台国とは、半島からの戦略物資"鉄鋌"の供給国として、重要な友好国としての地位にあった。鉄は、邪馬台国の土木・農業・武力における圧倒的な力の源泉であり、ヤマト王権への飛躍の原動力となった。人々は倭国の行く末を知る由もない。

女王卑弥呼はこの旅の10年後、西暦248年に没した。こののち邪馬台国は、激動の時代を経て、ヤマト王権を確立することになる。西暦260年、卑弥呼を葬るべく都纏向に築造された最初の巨大前方後円墳箸墓古墳"は、ヤマト王権の胎動を告げるものとなった。巨大墳墓建設の成功は、更なる王権強化への野望を抱かせた。

以来、西暦500年代に至る300年は前方後円墳築造の時代となった。同時に、この時代は、ヤマト王権の拡大、強化、遂には、大和王権確立の時代となった。墳墓築造の巨大事業の遂行と権力の中央集権化は、同時に進行し、且つ、相互補完的になされたのだ。人々をこの巨大事業の労苦に向かわせたメカニズムとはどのようなものであったのだろうか。

この間、丹波国は、邪馬台国の発展、ヤマト王権の成長とともにあった。西暦500年代には、50年間の間に3基もの巨大前方後円墳が築造されるという、繁栄の絶頂期を迎えた。しかしその繁栄は間もなく終わりを迎える。瀬戸内海航路の開通、鉄の国産技術の確立、大型帆船の出現が、丹波国を支えた地政学的な優位を奪った。繁栄の基盤を失った丹波国は、ヤマト政権に組み込まれていった。

ヤマト王権の確立は、人の力、人の技への自信をもたらしただろう。目の前に聳え立つ巨大墳墓は、それに費やされた莫大なエネルギーへの想いと共に、自然をも凌駕する圧倒的な権威と権力の在り処を人々に否応なしに知らしめた。自然への恐怖が克服され、畏怖の心は薄れた。卑弥呼の権威の源であった自然の力と神秘への崇敬と信仰は、新たな権力によって差し替えられた。新しい権威は、人が語ること、即ち、神話に託されることになった。時代は劇的に変わった。


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丹波の国の信仰も、古来の自然の神々への信仰から、神話の中の人の形をした神々に置き換えられた。

しかし、昔ながらの磐座には自然の神が宿ったままである。

 

 

 

丹波国の最初の湊、竹野潟湖から始まった陸行1月の旅は、ここ保津浜で170km、20日目となった。卑弥呼の都纏向までは、残すところ65km、10日である。

旅は、丹波国から邪馬台国へと引き継がれた。ここから先は邪馬台国の案内になる。旅は、邪馬台国の人々に委ねることで充分であろう。空想の旅もここで終わることにしよう。