残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

卑弥呼の都への水行陸行(6) 丹波国の道

一行の旅は、ここ丹後竹野から卑弥呼の都纏向まで、残すは陸行1月となった。現代の地図からすると、その距離は、おおよそ230km。1日あたり約8kmになる。東海道の旅人は時速3.4km、東海道山陰道の宿場は約9km間隔である。1日8kmの陸行は十分に余裕がありそうだが、実際はどうだろう。

竹野の港に上陸した一行は、潟湖のほとりの館に案内された。丹波国の首長と挨拶を交わした後、長旅への労いを受け、続いて歓迎の宴となった。見知らぬ異国の話しは、互いに興味が尽きることがなかった。丹波国の人々は、この国に伝わる建国の昔話を口々に語った。明日からの旅は、その建国の足跡をたどることになるという。

遠い昔、500年も前、この地、竹野潟湖のほとりに稲作が伝えられた。伝えた人物は今の首長の遠い祖先にあたるという。それで首長は今も厚い尊敬を集めているのだ。

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その人物は、種もみ、農耕具、栽培知識などを携えて、家族とともにやってきた。

最初の年こそ小さな水田ではあったがそれでも十分な収穫を上げた。

人々はこぞって教えを請い、稲作に加わり、水田は瞬く間に大きくなった。集落の人口は増え、水田はさらに拡大が必要となった。竹野潟湖に繋がる竹野川は緩やかで、川沿いは稲作の適地に恵まれ、中流域には広大な峰山盆地が広がっていた。水田は、竹野川を上流に向かって、年ごとに拡大し、次々と、新たな集落ができた。

見よう見まねで稲作を試みるものがあったが、それが成功することはなかった。知識と技量に加えて、人々を結集し統率する力が必要であった。水田の拡大には厳しい労働が必要であった。秋には1年間の苦労に見合う収穫が得られなければならない。彼は、多くの困難を克服し、それを成し遂げ、信頼と尊敬を得た。

稲作は、竹野川の上流域までに達し、更に、隣接する野田川流域へと広がった。長い年月のうちに、丹波国の河川の全ての流域に稲作が行き渡り、遂には、山城国との国境の保津川峡谷と老ノ坂峠に達し、そこが丹波国の終点になった。かくして500年後の今日、丹波国の全域は、今も、その子孫たちが治めることになったという。

 

丹波国には地形の条件が大きく幸いしている。丹波国を流れる竹野川、野田川、由良川大堰川(=桂川)は、何れも、流れが緩やかで、中流域には、それぞれ、峰山盆地、加悦
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盆地、福知山盆地、亀岡盆地が開けている。

これらの河川は低い分水界や海路によって互いに繋がっている。

竹野川の河口から、野田川ー宮津湾ー由良川桂川とこれらの河川を繋いでいくと、一筆書きで、山城国の国境に達することが出来る。水戸峠と胡麻平原の2か所の分水界で流れは途切れているが、この部分を陸路で結べば、丹波国は、ほぼ全域が舟運で移動できることになる。馬も車もないこの時代、内陸部での運搬・移動には舟運が第一の選択肢であった。丹波国は、稲作の適地と内陸の水運に恵まれていたのだ。

丹波国を縦断する舟運水路は、山城国に入って、邪馬台国纏向に繋がっている。その経路は、峰山から福知山は京都丹後鉄道、福知山から京都はJR山陰本線と、竹野ー峰山の未通部分と宮津ー由良河口の海上路を除けば、鉄道路線と同じである。遥か昔丹波国と纏向の結んだ幹線道路は、現代の鉄道路線と不思議なほどに完全に一致している。自然の地形は理にかなっているということであろう。

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異なる水系を隔てる境界が分水界であるが、

丹波の分水界は、地形が緩やかで、標高も低い特徴がある。

竹野川水系と野田川水系の境界の水戸峠は谷中分水界と呼ばれ、

由良川水系桂川水系の境界の胡麻平原は平地分水界と呼ばれ、

標高は、各々 53mと210mしかなく、特異な分水界とされる。

川船が運行可能と思われる上流の地点とこれらの分水界との標高差は、更に低く、15mと90m程度であり、距離も5kmしかない。陸路で超えるのは容易であろう。因みに、この2つの分水界を、現在は、鉄道が通っているが、トンネルなどはなくて、溝状の窪地を普通に走っていて、そこが分水界であるとは感じさせない。

さて、丹波国の説明が長くなってしまった。本題の旅であるが、これから先どれくらいが舟旅であり、どれくらいが徒歩になるのだろうか。船の輸送力は圧倒的なので、その活用のためには、ありとあらゆる工夫と努力がなされたであろう。様々な舟、吃水の浅い平船、底が頑丈な丘曳舟、河川航路の整備・開拓、堰による閘門、遡行の技術、川港、船着き場など・・。舟運航路の推定はしては見たが、この時代の川船の実際の運航については知るすべはない。

のちの時代の河川舟運についての記事によると、機械動力によらない船の場合、通船が可能な限界は、河川勾配300分の1以下とあった。必要なデータは標高と距離だけなので、通船可能な範囲が簡単に計算できる。結果を、機械的に適用すれば、次のようなことになる(河川の整備状況や遡行のための牽引道などすべて無視。以下にいう舟運可能とは、河川勾配300分の1以下である範囲と言い換えるのが実際には正しい。亀岡~纏向については、土地勘がないし、未だあまり考えていないのが正直なところ。できるだけ納得のいくものでありたいが、想像譚であることに変わりなし!);

竹野から纏向までの全行程は230km。その内丹波国内の竹野から亀岡までが166kmで内135km(80%)が舟運可能。丹波国外(山城・大和)の亀岡から纏向が65kmで内40km(60%)が舟運可能。全体では、合計230kmの内175km(76%)が舟運可能という結果になった。舟運の割合が想像以上に大きい。これだけ舟運が多ければ、陸行の旅も少しは楽かもしれない。

さて一行は、明日からは、丹波国の道を行くことになる。