残照身辺雑記

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丹波国の港  卑弥呼の都への水行陸行(5)

出雲国の美保関を出港して水行10日。いよいよ丹波国である。穏やかな初夏の日本海を進んで一行は丹後竹野潟湖の港に到着した。

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河口の段丘上の大成古墳群からは竹野川が一望できる。

しかし丹波国に繁栄をもたらしたかっての竹野潟湖も竹野の港も今は砂に埋もれてその姿を窺い知ることはできない。

船着き場を思わせる僅かな石積の遺構が今に残る痕跡であるという。

この丹波国の港から卑弥呼の都纏向までは陸行1ヶ月を残すのみである。

その陸行はどのようなものだろうか。想像を巡らせて辿ることにしよう。

一行が旅した西暦240年は弥生終期。この地に稲作が伝わってすでに500年である。竹野川河口域から始まった稲作は、今や丹後半島から山城国境に至る広大な丹波全域に行き渡った。加えて、渡来の人々がもたらした先端技術によって、鉄、水晶、ガラスの貴重な加工品の大生産地へと発展していた。出土した豪華な首飾りや腕輪は今も青い光を放っている。その輝きは弥生の人々の心を捉えたという。丹波国は弥生の先進国として最盛期を迎えつつあった。

丹波」の古名は「太迩波(たには)」で、その由来は「田庭」すなわち「平らかに広い地」とのことである。山がちな地域という丹波に対する現代のイメージとはかけ離れている。しかし、大陸に開かれた良港、稲作の適地、それらを結ぶ水運、丹波は弥生における発展の基盤に恵まれていた。古代の人々にとって、丹波は、その名の通り「平らかに広い地」であったであろう。

かくして、丹波国は、今や、先進の筑紫、出雲や新興の邪馬台国と肩を並べる倭国連合国の有力な一員であった。同時に、隣接する邪馬台国とは密接な交流を持つことになり、ついには婚姻・血縁の関係を持つまでに、特別な関係を深めていた。有名な開化天皇と丹後大県主の娘の竹野媛の婚姻など、ヤマト政権成立期の天皇と丹後の媛との婚姻記事が古事記日本書紀に数多く記録されている。ヤマトの王子たちは青い宝玉に身を飾った丹波の媛の華麗な姿に魅せられたのだろうか。そして丹波国の富が政権樹立の一役を担ったのだろうか。

開化天皇の実没年は、一説では、西暦260年頃とされる。竹野媛の婚姻は一行がまさにこの地を訪れた時期に重なることになる。華やかなその婚礼の話しを聞くようなことはあったのだろうか。

f:id:afterglow0315:20180627194414j:plain当時の婚姻はどのようなものだったのだろうか。

竹野媛の花嫁行列はこの地から大和に向かったのか。それとも天皇がこの地を訪ねてきたのだろうか。

何れにしてもその道は、奇しくも、我が一行がこれから辿る道と重なることになる。

竹野川河口近くに竹野神社がある。開化天皇の妃であった竹野媛が、年老いてのち、天照大神を祀ったのがその起源であるという。

さて一行が行く陸路はどのようなものだろうか。古代の幹線道路が開かれる遥か以前のことだ。倭人伝の記述は探険記ではなく旅行記である。立派とは言えないまでもそれなりに整備されたものであったろうか。想像の陸路を辿ることにしよう。