残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

卑弥呼の都への水行陸行(4) 水行2日目 響灘を行く 

水行2日目は岡湊(芦屋町遠賀川河口)を発っていよいよ倭国本土を目指す。この日の目的地は、岡湊から約20kmの響灘に浮かぶ藍島である。九州と本土を隔てる響灘を、藍島を経由して、横断すれば出雲への最短距離となる。古代の人々もそれを知っていたであろう。

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藍島(あいのしま)には6世紀頃の古墳群が残されており、また、日本書紀の仲哀記には「阿閇島」(あへのしま)として登場するとのことだ。歴史ある島だ。

第14代仲哀天皇は、熊襲征伐や神功皇后三韓侵攻の時代の天皇で、実年代としては西暦330年頃の在位と推定されている。一方この旅の記録の年代は卑弥呼が没する西暦250年の直前の頃のことなので、その頃の藍島を語る史跡・史実はない。しかし、海を我が庭としていた当時の人々には響灘の島々は十分に馴染あるものであったであろう。

藍島の地形は平坦で小さな入り江が点在している。入江の多くは砂浜なので格好の船着き場になる。当時人が住んだことを示す遺跡は見つかっていないらしいが、果たしてどうだろう。無人島での錨泊もあってもいいかもしれない。因みに、現在は島の人口は300人弱、港も三か所あって本土の小倉を結ぶ定期船も運行されている。地域猫が多く棲んでいて、最近ブームの「猫の島」としても知られる。

島の人たちの歓迎があったかどうかは別として、2日目の水行は無事終えることができた。この先も船旅は順調だろう。ということで想像上の水行はこの辺で終わりにしようと思う。岸に沿って進む水行は水先案内と気象条件が整えばあまり問題はなさそうに感じられる。古代の人々にとって、唯一無二の交通・輸送の手段であった丸木舟は、技術と運用の知識と経験が縄文の時代から受け継がれて、最高度に極められ完成されたものであったろうと想像させられた。

さて次は陸行1月に思いを巡らせることになる。日本海航路説がどれくらい論じられているのかも気になる。徹底して検索でもすれば比率は計算できるのだろうが意味のあることとは思えない。一寸調べると色んな説は直ぐに出てくるので、九州説:畿内説=50:50、畿内説の内で瀬戸内経由:日本海経由=50:50程度に考えるのが気楽でいい。この計算で行くと日本海航路説は0.5×0.5=0.25=25%になる。

日本海航路説でも、投馬は出雲だから日本海航路であるとする論や航路は日本海しかない、だから投馬は出雲であるとする論など、この辺は微妙に違っている。何れにしても投馬=出雲、航路=日本海ということになる。投馬から先は水行10日+陸行1月で卑弥呼の都である。

投馬から水行10日の上陸地は倭人伝に記述はない。陸行1月の起点であり、その特定は重要である。諸説論じられるが特に有力とする説はなさそうである。

f:id:afterglow0315:20180608201350p:plain例を挙げると;

鳥取市上陸ー中国山地越えー山陽道ー纏向。

円山川河口(豊岡)ー円山川分水嶺加古川山陽道ー纏向。

竹野川河口(丹後半島)ー丹後横断ー由良川河口ー由良川分水嶺桂川ー淀川ー纏向。

敦賀上陸ー峠越えー琵琶湖ー淀川ー纏向。などである。

さて小生であるが、地元の住人としては勿論、③の丹後半島由良川桂川のルートに思い入れが強い。実際、これが合理的であるとも考えている。ルート中の一番遠いところで車で3時間、近いところは40分という地の利もあり、実際に現地を当たることもできる。ということで1か月の陸行の想像の旅に出発することにしよう。なお、③ルートについては、長野正孝著「古代史の謎は『海路』で解ける」でも言及されており、教えられることが多かった。