残照身辺雑記

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卑弥呼の都へ水行10日陸行1月(2) 投馬国は出雲?

邪馬台国への旅を続けよう。その行程は、「不弥国より南のかた投馬國に水行二十日。更に、南のかた邪馬壱國に水行十日、陸行一月。」である。

不弥国に到着した一行は、卑弥呼の都に向けて出発した。次の目的地は投馬国である。水行20日を要するという。それはどのような旅なのだろうか?実際に可能なことなのだろうか?そして投馬国=出雲は正しいのだろうか?

大まかな計算をしてみる。

最初に、不弥国、投馬国の間の距離を求める。それには港の場所が要る。候補地はいくつもあるが、不弥国を福津市宗像市、投馬国を出雲とするので、どこに決めても違いは小さい。そこで不弥国の港を神湊、投馬国の港を境港とする。

2つの港の距離は、海岸線に並行して航行するとすると、約400kmである。国土地理院地図やYahoo地図の計測ツールで簡単に求めることができる。

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距離400kmで水行20日なので、1日の航行距離は20kmになる。

投馬国と丹後国についても同様に計算すると、距離は200kmであり、水行10日なので、同じく1日の航行距離は20kmとなった。不弥ー投馬ー丹後の航路について距離と日数の関係は都合よく説明できることが分かった。

それでは 1日あたり20kmの航行距離はどうなのだろうか?

不弥国の神湊、現在の宗像市神湊の沖合7kmに大島という島がある。現在はフェリーが就航しているが、江戸時代には手漕ぎ船が連絡しており、その所要時間が片道4時間であったという。とすれば20kmを航行するには、20÷7×4=11時間を要することになる。古代と江戸の手漕ぎ船の速さは比べようがないが、人力であることには違いがない。明るいうちに目視でとなれば、1日11時間の航行は妥当なところだろう。

ということで、不弥国から日本海を経て大和の纏向に向かうとして計算した結果が、倭人伝に述べられている内容とほぼ一致した。

図書館で順番待ちだった長野正孝著「古代史の謎は『海路』で解ける」の原本を読むことができた。内容は以前読んだ「生駒の神話」さんのブログの抄録に尽くされていて、結論が変わることはなかった。瀬戸内海は、岩礁の瀬戸、干満差による潮流と汐待、複雑な水路など条件が厳しく、卑弥呼の時代には航路は開けておらず、当時の船と技術では通り抜けることは困難であったとのことで、一方、日本海沿岸は、所々に潟湖があり、季節を選べば静かで、縄文時代から航路が開けていたとのことである。日本海か瀬戸内海かの重要な分かれ道を本書に教えられた。

さて、魏志倭人伝では、不弥国から先の行程が次のように記されていて、邪馬台国に到着するには、最後に1か月の陸行が控えていることになる;

南のかた投馬國に至る。水行二十日。五萬余戸ばかり有り。            南のかた邪馬壱國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。七萬余戸有り。

もし、ここにいう水行が、瀬戸内海経由であるとすれば、普通に考えると、最後は、淀川の河口付近の港に上陸して、そこから大和纏向まで、8日程度の陸行をすることになる。その場合、倭人伝の最後の1行は;「南のかた邪馬壱國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行8日。七萬余戸有り。」となったであろう。

最後が陸行8日であれば、議論の余地は少なく、邪馬台国論争はなかったかもしれない。しかし実際には、陸行一月であり、諸説が生まれることになった。