残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

130年のタイムスリップ パーシバル・ローエルが訪れた名水の里黒部市三日市

  数年前に帰省すると生家の前に小さい案内板が立てられていた。明治の中頃に当地三日市を米国の天文学者パーシバル・ローエル氏が訪問しこの家に宿泊したとあった。

 天文学者のローエルさんのことは、子供のころから良く知っていて、自分にとってはとても身近な人だった。そのローエルさんが、昔、我が家にお泊まりになったとなると自分には一大事である。その奇遇と再会に驚いた。

 ローエルさんは高名な天文学者で、火星に筋状の模様を観測して、火星人の 運河説を唱えたことで知られるが、未知の惑星Xの存在を数学的に予言したことや、銀河の後退速度の発見に関わって、ビッグバン宇宙論の端緒を開くなど、優れた業績を残した大天文学者なのだ。没後、惑星Xはその存在が確認され、冥王星Pluto” ギリシャ神話の"冥府の神”と命名された。“Pluto”には彼のイニシャルPLの意味も込められているという。 

 小学生の僕は、いっぱしの天文ファンで天文雑誌の愛読者であった。人気の書き手であった野尻抱影さんの記事には土星のリングの話しや火星の運河のことなどが魅力的に書かれてあった。

 赤い火星の挿し絵に描かれた細い「運河」の筋と白く輝く「氷の極冠」は未知の世界への興味をかき立てるものであった。夏の夜空に見えるその星は赤く少しにじんだ感じで心許なく小さく光っている。それでも瞬くことなく太陽系惑星であることを主張していた。火星のことをすっかり好きになった。

  その頃の僕は自分の作った望遠鏡で土星のリングや火星の運河が見たいと思っていた。色々調べたりしていたが、小学生の子供には無理なことで、高性能の望遠鏡はあきらめるしかなかった。それでも天文雑誌を読んだり、星空を眺めて想像を巡らしたりするのはとても気に入っていた。そういうことでローエルさんのことは良く知っていたのだ。

 立て看板のことはそのうち調べないとと思いながら、大阪に帰ってくれば忘れてしまうという繰り返しでそのままになっていた。今回、たまたま同級会の原稿のことがあって、ローエルさんのことを調べることにした。インターネットの威力は絶大でたちどころにいろんなことが判ってきた。

 ローエルさんは明治16年から25年にかけて都合4回も来日しているのだ。日本で美術品を買い付けるという知人に同行したのがきっかけになって、日本の精神文化に惹かれることになる。神道についての著作を残しており、松江のラフカディオ・ハーンとも親交を持ったとある。ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが、天文学者に転じたのはこの旅行のあとのことである。

 ローエルさんが北陸地方を旅行したのは明治22年(1889年)の5月のことで、その旅行の様子を記した「NOTO」という著作があり、翻訳本もでているとのことである。これはどうしても読んでみないといけない。大阪の図書館にはないことが判ったので、地元ならばと黒部市の市立図書館に問い合わせると確かに所蔵しているとのことである。折よく知り合いが帰省するとのことなので三日市付近の記述があれば是非コピーをしてきて欲しいとお願いした。

 黒部市三日市は黒部川扇状地を形成し始める扇の要の位置から少し下流の西岸に位置している。市街のはづれの宮野山丘陵からは扇状地がなだらかに傾斜しながら富山湾に落ち込んでいる様子を見渡すことができる。直ぐ目の下には旧国道沿いに三日市の町並みが横たわっている。その先には、田植え時であれば水の張られた水田が一面に白く光る中に、小さい集落があちこちに散らばって見える。

 子供の頃に大人から聞かされた話には、荘園時代には桜井の荘であり、南北朝の時の楠正成の桜井の別れの舞台であるとか、謡曲鉢の木のいざ鎌倉の佐野源左衛門常世の住居跡の言い伝えなど、少し怪しげな、でも誇らしげな、お国自慢風の町の歴史の断片がちりばめられていた。

 町には浄土真宗草創期からの古いお寺があって、3のつく日に門前に市が立ったのが三日市の名前の由来という。黒部川越えを控える地に当たり江戸時代には宿場が置かれたという。寺は、かって大火に遭ったことがあり、大切なお寺の過去帳が焼失してしまったという。そういうことで町の詳しい歴史をたどるのが困難とのことである。

 我が家は今は街道沿いのごく普通の町の薬屋になっていて、昔を偲ばせるものはない。それでもいつ頃のものかは良く判らないが大黒柱の骨組みの一部が残っていたりする。江戸時代には加賀前田藩の参勤交代の折にお殿様が宿泊される御旅屋を勤めていたこともあるという。明治維新になって花火と薬の製造販売業に転じたという。そして今は町の薬屋さんという訳である。

 そういうことで明治の半ばにはまだローエルさんがお泊まりになるような場所だったのかもしれない。ひょっとすると113年前の我が町、我が家の様子が知れるかと期待して待った。

 知人が届けてくれたコピーは期待していた以上のものであった。ローエルさんはその時の様子を著書「NOTO」の中で2頁に渡って書きしるしてくれていた。

 ローエルさんが通訳の従者と2人で「能登」を目指して東京を出発して、碓氷峠、長野、直江津、親不知を通り、三日市の町に入ったのは明治22年5月6日の夕闇が漂い始める頃のことであった。当時、鉄道は直江津までであったので、三日市の町へは人力車で入っている。「NOTO」に記されたその時の様子を以下に抜粋する;

 夕闇が漂う中を田圃の間を縫って続く田舎道を進んで、提灯の灯がともる三日市の町に到着したときは、辺りはすっかり暗くなっていた。

 町の細長い中央通りは、道路の中央が導水路になっていて、両側が通りになっている。人力車は通りの片側を進んで一軒の宿の前に到着して止まった。宿の使用人が全員繰り出してきて温かい出迎えを受けた。

 村人たちが物珍しそうに右往左往してひしめく中を玄関の両側につり下げられた提灯の間を抜けて中に入った。歓迎の人々が大勢で一々挨拶することもできない。宿の人たちは、その昔、加賀の国の大名が宿泊したときの、賓客を迎えるときの作法をわきまえているので、それに習ってか至れり尽くせりの奉仕ぶりであった。

 宿の建物は、修理を要するところも見受けられるが、かつての栄誉を誇る品位が保たれており、海の彼方からきた私たちをも鄭重にもてなしてくれた。格調の高い待遇を体験し、昔の豪奢な香りの中で睡眠をとった。

 朝が訪れ、目覚めると、部屋に面した小さな中庭で2羽のアヒルが朝の水浴びを小さな池ですませ、しきりに羽を整えていた。縁側には洗顔のための水を張った金盥が私のために用意されていた。アヒルも私もこの世のエデンの園とでもいうべきこの美しい庭のほとりで、水浴びをしてサッパリした気分になり、ここを去らねばならないのである。朝食が済むと再び我々は路上の人となった。

 ロウエルさんは「NOTO」の中に113年前のみずみずしい自然にあふれたふる里の姿を書き残してくれていた。僕にとって特に印象的な部分は、中央通りの道路の作りが説明されている所と、エデンの園という庭の下りである。

 実際に母が自分で見たことだったのか、あるいは誰かから聞いた話だったのかは今となっては確かめようもない。母が良く昔のはなしをしてくれた中で僕が特別に気に入っていたのが中央通りの小川の話だった。

 家の前の通りはその昔は真ん中に綺麗な小川が流れていて川沿いには柳の木が植えられていた。川の両側が道路になっていて、行き来するための橋が所々に架かっていたという。情緒いっぱいの昔の町の姿である。「NOTO」に描かれた様子は母の話そのままであった。

 町の中央通りの真ん中を流れていたというその小川は今は埋め立てられて道路の両脇に追いやられて暗渠になっている。それでも暗渠の水は今も流れは速くて豊かだ。雪が沢山積もった冬の朝には家々が一斉に流す道路の雪かきの雪も難なく飲み込んで下流へと運んでくれる。

 よほど気に入ったのかあるいはそれまでの旅がよほど大変だったのか、ローエルさんがエデンの園とまで言っている小さな中庭はそれと思われるものが今も残っている。でも池の底はコンクリート張りで水も張られず落ち葉が積もっているだけになっている。

 僕が小学生の戦後間もない頃まではこの中庭の池は道路沿いに軒を連ねる家にはそれぞれに設えられていて、小さな小川が家々の中庭の池を繋ぎながら町中を縫って流れていた。黒部川扇状地の豊かな水と僅かに傾斜した地形が生かされているのだ。隣の家との間には小川の中に金属棒の柵があって池の鯉が行き来しないようになっていた。

 子供の頃には笹舟流しの格好の遊び場であった。そのうちにだんだん水の流れが悪くなり、いつしか水は流されなくなってしまった。池は水道水に頼るコンクリート張りになり、そのうち漏水がひどくなって、管理もままならず、今は落ち葉の溜まり場になってしまった。

 ロウエルさんが顔を洗った金だらいが置いてあったという縁側には、僕の子供の頃には籐の椅子が置いてあって、中庭に面した日当たりの良いその場所は、籐椅子の足台を引き延ばすと、家一番の昼寝の場所であった。

 黒部市のキャッチフレーズは「名水の里」である。今も変わらず美しい水に恵まれている。しばらく前までは、市の上水道の水源は黒部川の伏流水であった。夏は水道の蛇口は冷たい水のせいでいつも水滴がいっぱいについていた。年中変わらない冷えた天然水がそのまま水道水なのだ。立山連邦に降り積もった雪が雪解け水になって大地に深く染み込んで長い歳月を経て伏流水となって黒部川扇状地の土地を潤す。ロウエルさんが訪れた頃の美しい水にあふれた自然の恵みは今も変わらないのだ。同級会で自分史文集を作るとの企画のおかげで懐かしいふる里の自然と歴史を思い起こすこととなった。
            2002.5.31.記(卒業40年記念誌寄稿文から一部を抜粋修正)

 16年前に書いた文章がUSBに残っていたので少し書き直してUpした。生家は数年前に建て替えられてしまって、私が過ごしたころの面影は今は全くない。この文章の中に僅かにその記憶が残った。