残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

卑弥呼の都へ水行10日陸行1月(1) 経ヶ岬灯台を訪ねた 

カニシーズンが終わるので浅茂川温泉に出かけた。雪を心配していつも3月末になるが今年は更に遅くなって4月に入ってしまった。あと二日でカニはお仕舞いという。

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以前は城崎が多かったが、ここ数年は浅茂川だ。

浅茂川温泉は丹後半島の西側の付け根の海辺にある。

宿の炬燵から見える八丁浜の景色が素晴らしい。犬を連れて朝の散歩をする人や、寒いこの時期にもサーファーの姿が間近に見える。すぐ近くには日本海側で最大の前方後円墳という銚子山古墳がある。ここは古代の丹後王国が栄えた地でもある。

 

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帰りに経ヶ岬灯台に立ち寄った。

岬までは初めてである。近くまでは良く来ていたが、路が悪いと聞いていたのと、日帰り釣行では時間も問題で敬遠していた。今回は行きたい理由もあった。

丹後半島を周回する国道176号は蒲入や伊根のバイパスやトンネルが完成して、すっかり快適なドライブウエーになっていた。

 

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 経ヶ岬丹後半島の先端にあって、海の難所である。

岬に住みつく悪竜に苦しむ漁民たちの願いに応えて、文殊菩薩が大陸から渡来して、一万巻の経を海に納めて悪竜を鎮めたという伝説がその名の由来という。

日本海に突き出た丹後半島は、海の難所であると同時に、対馬海流による古代の文明の伝来や人々の渡来をもたらすことになった。

「生駒の神話」さんが「古代史の謎は『海路』で解ける(長野正孝)」という本から引用されている文章をよんだ。『海路』という視点から古代史の謎解きができるというもので、とても興味深く、示唆に富んでいた。

古代史の謎といえば邪馬台国論争である。卑弥呼の都はどこにあったのかという単純な設問なので、誰もが意見を持ち、理解もできる。文献や物証が未だ十分でなく議論は尽きない。九州説と大和説の論争は決着しそうにない。『海路』という切り口が論争に新しい視点を与えてくれるかもしれない。

というのも、この文章のおかげで、邪馬台国についての、私にとっての大問題が、たちまち解消してしまったからだ。何が解消したのか?も含めて私の邪馬台国を紹介しよう。勿論、先人の苦労・苦心の説を援用するだけのことなので、論でもないし主張でもない。邪馬台国について理解し想像するというレベルのことである。

魏志倭人伝、即ち、『三国志』魏書東夷伝倭人条は、有名な「倭人は帶方の東南、大海の中に在り。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。旧百余国、漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。郡より倭に到る。・・」の叙述からから始まって、帯方郡から倭人の国に至る行程を以下の通り説明している;

帶方郡を出発して、韓国南部、対馬壱岐を経たのち、

一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。千余戸有り。
東南のかた奴國に至ること百里。二萬余戸有り。
東行して不彌國に至ること百里。千余の家有り。
南のかた投馬國に至る。水行二十日。五萬余戸ばかり有り。
南のかた邪馬壱國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。七萬余戸有り。

九州の末盧國に上陸した後の ”末盧國から女王の都する所まで” のこの僅かな記述を巡って300年間も論争が続いてきた。

さて以下私の邪馬台国;(1)邪馬台国奈良県桜井市纏向付近としよう。大和説は近年の大勢でもある。場所の特定もさることながら、一行の苦難の道程をリアルに想像することの方に関心がある。輸送手段は手漕ぎの丸木舟と人力で挽く修羅。車輪も馬もない。古代の人たちの知恵と強さと情熱を思う。

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(2)九州上陸後の道程は、大和説の通説に従って、末盧國=唐津市付近、伊都國=糸島市付近、奴國=福岡市付近、不彌國=福津市宗像市付近とする。方角についても反時計回りに90度修正するのが妥当とする説に従うことにする。以上を地図上に描くと右図になる。

不自然なところはなさそうだ。

(3)かくして、一行は末盧國上陸後、九州北部沿岸の陸路を順調に進んで不彌國に到着した。途中の伊都國では、駐在する中央官庁の役人の厳重な検査を受けて、魏の皇帝からの下賜の品々の無事が確認された。

(4)不彌國は、海洋豪族の根拠地であり、響灘西部から玄界灘全域の広大な海域を支配する海の強国である。福津市北部に残る新原・奴山古墳群や宗像市の沖合の大島、沖ノ島は、不彌国とその後継であろう宗像氏の繁栄と海の神々との強い繋がりを伝えており、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」として世界遺産に登録されてもいる。不彌國に到着した一行は、ここから卑弥呼の都に向けて水行20日+水行10日+陸行1月=合計60日の大旅行に出港するのだ。

(5)不彌國は出港の地に相応しい。選りすぐりの巨木から削りだされた波よけ板を備えた最新の半構造型の大丸木舟、卑弥呼のもとに届ける100枚の銅鏡、400反もの貴重な織物、数々の金銀財宝、大陸の貴人・役人・従者、屈強な漕ぎ手たち、彼らの腕力がこの船団を進める。海を知り尽くした海人族の案内人たち。準備が整った船団は今や遅しと出航の合図を待ち構えている。潮読み風読みの長老たちが遂に采配を振った。船団は乱れなく一斉に水面を滑って湾内から玄海灘へと漕ぎ出していく。20日の水行には20か所の錨泊地が必要だ。一行を迎える錨泊地に遺漏があってはならない。文字のない時代に仔細を伝え手配を整えるには困難があっただろう。早くからその手配がなされて来ている。不彌國は大事業の重要な担い手であった。

出航した船団の次の目的地は水行20日の「投馬国」である。大和の邪馬台国に向かうには、瀬戸内海経由か日本海経由かのいずれかである。瀬戸内海航路の場合は投馬=鞆、日本海航路の場合は投馬=出雲と考えられている。

さて何れであろうか?「投馬国」を何処に比定するか。これが答えが出せないでいた私の問題であった。それが『海路』の文章を読んでたちまち解消してしまった。私の答えは日本海経由となった。従って、投馬国は「出雲」。出雲から更に水行10日で「丹後」に上陸。丹後から陸行1月して邪馬台国の都「纏向」に到着。これで私の邪馬台国が完結した。丹後半島は ”卑弥呼の都へ水行10日陸行1月”の地なのだ、出雲からの水行10日で到着し、邪馬台国のへ向けての最後の陸行1か月の出発地なのだ。