残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

丹波国から邪馬台国へ  卑弥呼の都への水行陸行(7)

一行は竹野潟湖の朝を迎えた。残るは陸行1月である。陸路丹波国を進んで邪馬台国を目指すことになる。港と港を結ぶ海路に比べ、複雑である上に、それを想像する手掛かりに乏しい。それらしい断片を頼りに、空想の旅を続けよう。

湊には、底の浅い丹波の国の船が繋がれている。川筋をたどる旅に備えてのことだ。魏の国からの品々は昨夜のうちに積み替えられた。船出のための儀式が行われると、舫いが解かれて、船団は静かに港を離れた。この日の目的地は上流20kmの大宮である。

広々とした潟湖を棹を差して進んだ船団は、やがて竹野川に入った。水手たちは備えられた引綱を持って、川に飛び込んだかと思うと、両岸に上がって綱を引き始めた。梶取が棹を操って導いていく。船は曳かれれながらf:id:afterglow0315:20180802204501p:plain、楽々と流れを遡った。

岸の土手には綱道が続いており、その先には稲の苗が見渡す限り青く伸びている。

船は、広々とした平野を進んでいたが、やがて川幅が狭まり、しばらくすると、水深も浅くなって、船底が今にも川底に着かんばかりになってきた。いよいよ遡行もこれまでかと思われた頃に大宮の港に着いた。日はまだ高い。                      

江戸時代に淀川を航行した「三十石船」は、三十石の米を積むが、客船としても、大阪と京都を結んでいて、船頭と水主4、5人と、約30人の客を乗せて、淀屋橋を早朝に出発して夕方には伏見に着いたという。距離は45km。一部は棹を差すが、殆どは綱を引いて遡ったという。おおよそ時速4.5kmになる。弥生の曳舟も変りはないだろう。

大宮は丹波国の都峰山から少し上流の水戸谷峠越えを控えた要衝の地である。水戸谷峠越えは、丹波国の本拠地である竹野川流域と、後に開かれた、野田川、由良川桂川の流域の広大な領地を結ぶ、最も大切な道路なのだ。

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さて翌朝になってみると、昨日の到着時には浅かった大宮の湊の水深は、一夜のうちに、胸元までの深さになっている。

川幅が狭いその場所に堰が設けられて、夜の間に水がせき止められたのだ。

水深が増せば船は更に先へと進むことが出来る。

亀岡市大井町の北金岐遺跡で発掘された“大溝”の調査報告によると;

溝は幅は9mで長さは55mの人工のもので、周囲からは、板材、立杭、丸太、栗石など、堰に用いたと思われる材料や田舟と思われる丸太の刳り舟が出土した。大溝は集落と水田を結ぶ水路、堰は灌漑や水路の水位調節のためのもの、田船は農耕の物資を運ぶものとされている。

亀岡市大井町は、これから辿る桂川大堰川)の川沿いに位置しており、遺跡の年代もこの旅と同時代の弥生後期である。一夜限りの堰が船の遡行にどれだけ役に立つかは怪しいが、たまたま目にした発掘の記事に触発されて想像を膨らませた。一行の旅はどうであったろうか。

臨時の堰のおかげで、船はしばらく竹野川を遡ったが、ほどなく水戸谷峠の登り口に差し掛かった。川幅は狭く流れも浅くなった。いよいよ船は川から離れて丘舟になる。船が山を越えたという言い伝えは多いが、丘舟がどのようなものであったかは定かでない。山を越えた
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先が、再び舟運ということであれば、船をそのまま峠の向こう側まで曳くのが、合理的であるように思われる。地形が許せばだが・・。

現代の地図から推測すると、水戸谷峠越えは、大宮側からは登りが距離4km、標高差10m、下りが距離2km、標高差40mである。舟を曳くには問題なさそうに思われる。

それでは想像の丘舟である。船には長い頑丈な引綱が結ばれ、大勢の人足が引綱に取り付いた。船は、柴が厚く敷き詰められた浅い窪みの中へ導かれると、掛け声とともに、ゆっくりと、そして難なく、するすると柴の上を滑って峠道を登り始めた。敷き柴の世

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話が専門の係りの者もいる。柴道の擦り切れを補充したり、滑りを良くする杉や松の青葉を咬ませたりするのだ。

峠を下り終えると、目の前が阿蘇海である。

当時は阿蘇海は内陸に深く入り込んでいたのだ。

そして海への出口であるその場所には弥刀神社が祀られていた。弥刀は水戸であり、水戸は水門で湊である。水戸谷峠越えの道は阿蘇海の港に繋がっていたのだ。

かつては、阿蘇海が弥刀神社の石段の下までを満たしており、舟運が盛んな地であったと伝えられる。
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弥刀神社は今も野田川の段丘上に残るが、阿蘇海は遠く後退して、家並に隠れて見通すことはできない。

かくして丘船は峠を越えて阿蘇海の水戸の港に浮かんだ。

阿蘇海は宮津湾の入り江が南北約4kmの天橋立の砂洲によって仕切られた潟湖で、西の潟尻から野田川が流入し、砂洲の南端の狭い開口部で外海の宮津湾とつながる。砂洲の北の端は陸地に繋がっていて、一帯は天橋立北浜と呼ばれ、後にこの地に丹後国府が置かれたことから、府中とも呼ばれる。

船団は阿蘇海を進んで、天橋立北浜の真名井原の港に入った。真名井原は信仰の地である。そこに座する
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磐座には自然の力が籠ると信じられ、

縄文の昔から、畏敬と祈りが捧げられてきたという。それは丹波国に受け継がれ、今に伝わることになった。

真名井原には、今も真名井神社、籠神社が祀られ、籠神社は元伊勢神社、丹後一宮とも称される。そこには自然信仰から神話信仰への変遷の歴史が秘められている。

神話の神々を祭神として祀るこれらの神社の創祀は、この旅の時代よりさらに後世のこととされる。そして磐座は今も昔のままに鎮座している。一行を迎えた丹波国真名井原の祭祀はどのようなものであったろうか。

天橋立を越えて宮津湾を渡れば由良川河口である。