残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

手作りラジオでBCLに熱中    昔のBCLと天国に一番近い島   

以前"BCL"のことを書いたことがある。海外の放送局の受信を楽しむという今や絶滅危惧種かとも思われる趣味のことである。遠い昔の1950年代に自分が熱中していたBCLの話を、珍しい昔話になるかと、少し書き直して、UPすることにした。

最近のBCL事情を調べてみると、あちこちでBCLクラブが活動しているし、ネット繋がりでの交流も盛んらしい。"BCLは趣味の王様!"という当時からのフレーズが今もそのまま語られていることも知った。BCLは健在なのだ。使用される機材も情報も様変わりに高度化しており、趣味としての面白さも昔とは異なっているように思われる。懐かしくもあり嬉しくもある。以下以前の文章;

 

「イシ ブラザビル・・・・」。リズミカルな太鼓の音と共にフランス語のコールサインが雑音の中に聞き取れた。フランス領コンゴブラザビル放送局。遠いアフリカの息吹が電波に乗って届いた。アフリカ大陸からの電波だ!"Ici Brazaville"とは"こちらはブラザビル"の意味。とうとう念願達成である!

何とか推定した受信周波数。受信の状態。受信放送のGMT日時と放送内容。など受信の様子を葉書に書き込んで郵送。一ヶ月もすると葉書の"Verification Card"が送られてきた。ブラザビル放送局のそれは感激の一枚であった。

"Verification Card"は放送局が受信者に対して発行する受信証明書がである。カードのデザインは、国柄を映したものや、素っ気ないコールサインのアルファベットだけのものなど・・様々である。中学生の終わりの頃からと思うが、ラジオの組立が薨じて、自分の作った短波受信機で世界六大陸の放送局を受信したいと思うようになった。

時代は冷戦時代の只中である。短波放送は国境を越える宣伝メディアとして重要視されていた。Voica of AmericaやBBC、Radio Moscowさらには北京放送局、東西の大国が大出力の放送電波を競い合っていた。加えて、互いの放送を妨害するための強力なジャミング電波。電波の渦の間を縫って電波は届いた。

一番のお気に入りは"イシ・ヌーメア"。南太平洋はニューカレドニア島ヌーメア放送局からの電波である。南の国から届くフランス語の放送に魅せられた。ニューカレドニア島はのちに森村桂さんの小説「天国に一番近い島」の舞台として有名になったが、以前から僕はこの島のことをよく知っていて、憧れの島でもあった。放送の受信は島への憧れを少し満たしてくれた。

この島のことを知っていたのは小学生の頃にいつも眺めていた世界地図のせいである。終戦の翌年に小学1年生だった僕は一冊の地図帳に熱中していた。兄たちが使い古した旧制中学の地理の地図帳。敗戦とともに打ち捨てられたものであったのだろうか。背表紙はすり切れて細い糸がむき出しになっている。それでも何も無かったその頃の僕にとって光沢のある紙面に鮮やかな色彩で印刷されたその古い地図帳は見飽きることのない好奇心と空想の対象であった。

疎開して来ていた東京の家族がいなくなって、がらんとした2階の座敷の真ん中でいつも腹這いになって眺めていた。中でもお気に入りは南太平洋の島々。海の青い色の中に鮮やかな黄土色の島々。日本委任統治領南洋群島。南の方まで誇らしげに張り出した統治領境界線。境界線の内側がソロモン諸島で外側の遙か南の島がフランス領ニューカレドニア島である。南の島々に想を馳せながら僕は、戦争に負けてしまったのでこんなところには日本人はもう行けないのだと、とても残念な気持ちだった。南洋群島が日本人のフロンティアだった頃のことが子供だった僕の心にも刷り込まれていたのだ。

ついでに「天国に一番近い島」がどんな話かは次の通り(角川文庫より);大好きだったお父さんを亡くした失意の”私”が旅に出る。お父さんが生前「天国に一番近い島だ」と言っていたニューカレドニアへ。ところがその島へ行っても天国らしい風景はない。そのうえ病気になるなど”私”はさまざまな危険に遭遇する。で、ここは天国じゃないと一度は思うが、現地の人達に触れ合い、助けられて、実は天国とは人の心の中にあることを教えられるという話。森村さんの実体験に基づいた小説。ところで森村さんは1940年1月3日生まれ。ということは我々と同学年である。

ラジオ工作の月刊雑誌を買ったことがきっかけになって、中学、高校の頃をハンダ付けと短波放送の受信にハマることになってしまった。雑誌に載っている受信機の配線図から気に入った効能書きのものを選んでは実物大の立体配線図に書き上げる。検波回路の領域はできるだけ短く配線ができるように、電源領域は放熱を考えて端の方に、真空管、コイル、トランス、コンデンサー、バリコンの配置を考える。必要な部品リストを書き出す。バーチャルの世界である。自由に工夫を巡らせては楽しんでいた。

実際にラジオを組み立てるとなると現実は厳しい。昭和二十年代の終わりのことである。田舎では部品の入手の手段は通信販売しかない。ラジオ雑誌の巻末の数頁は通信販売の欄になっていた。当時から部品が一式セットになった組立キットもあったがこれはとても高価で高嶺の花。買えるのはばら売りの部品である。特に安いのは米軍の放出部品と称するジャンク部品。それとポンコツになった我が家の古いラジオからの回収部品も活躍した。部品の信頼性のせいもあったと思うが、真空管が3-4球の簡単なものでも、完成してきちんと動くのは2台に1台の感じだったような気がする。

そのうちに短波放送の受信に関心を持つようになった。短波放送の受信は Broad Casting Listening(=BCL)と呼ばれ、アマチュア無線と並んで人気があって、受信がとても困難な世界の僻地の放送局を苦労の末に受信したといった自慢話がラジオ雑誌の紙面を飾っていた。

短波放送の受信には受信機の性能だけでなく、電離層の条件にも恵まれる必要がある。電波が地球の裏側から届くのは、地球を取り巻いている電離層のおかげである。短波放送には電離層で反射される短い波長の電波が使われていて、地表と電離層の間を反射しながら伝わるのだ。

電離層は、太陽が放射する"太陽風"と呼ばれるプラズマが、地球の超高層の大気に衝突して、大気分子を励起することで生成する。風という名の通り気まぐれな太陽風に左右される電離層の生成は一種の気象現象である。うまい具合に発達すれば、微弱な電波も、効果的に反射されて、遙かな彼方まで鮮明に届くという訳だ。

ということで短波放送の受信には、移り気で不安定な電離層を相手に電波を待ち伏せたり追いかけたりする、いわばハンティングといったゲーム性が加わっていて、魅力が倍加されているのだ。Verification Cardは苦労して仕留めた獲物の自慢の剥製というわけだ。

現代では地球の周りに打ち上げられた放送衛星が電離層の役割を果たしている。電波の世界は様変わりになっている。それでも衛星は電離層と同じように地球の周りに配置されることで電波を伝えている。地球が球体であり電波が直進する以上この仕組みは不変なのだ。

自作の受信機で世界の放送を聞いてみたいと思うようになってしばらくして、とうとう一大事業に取りかかった。それまで作ったラジオは全部ばらして部品をできるだけ回収して倹約、選局バリコンの駆動のメカだけには微動式ダイアルを張り込んだ。

半年くらいかかったように思うが5球スーパーヘテロダイン式3バンドオールウエーブ短波受信機が完成した。スイッチを入れると直ぐにうまく動くことが判った。寄せ集め部品の手作り受信機がきちんと作動したのは今思えば奇跡に近い気がする。自分が作った受信機で外国の放送を受信する夢が叶った。

日経新聞に「青春の道標」という連続自伝のコラムがあって、ミュージシャンの坂田明さんという人が「1955年頃に無線にあこがれてラジオ作りに取り憑かれた、部品の入手に自転車で隣の町まで山を越えていった」、「自作のラジオで聞いたジャズミュージックに感激した」と、そのころの僕の気持ちと同じことを書いておられるのを見つけた。

同じ時代に同じ思いで過ごしていた人がいたことを知った。オマケに多分同じ頃に同じ昔のことを思い出しながら同じような文章を書いていたという偶然に2度ビックリ。その記事の見出しは「自作ラジオに熱中-流れる音楽に酔う-」であった。

あまり経たないうちに日経夕刊の「人間発見」という連載欄にこんどは「ラジオや無線・・・少年時代から熱中」という見出しに出会った。コンピューターソフトウエアの「トロン」の開発者として高名な坂村健教授にインタビューしながらの連載記事である。やはり中学生の頃にラジオや無線に没頭したこと、欲しい部品を探して秋葉原通いをしたこと、ハンダごてを使ってのラジオの組立、完成して音がでてくる瞬間の歓びは何とも言えない、といった記事である。

自分が熱中していたことを他人に話すのは何となく気恥ずかしく、気後れするところがある。好きな女優の名前は?と聞かれて答えるのが何となく憚れる気分になって曖昧にお茶を濁したりするのと同じだ。ということで逡巡するところがあったが、お二人の記事を続けて読むことになって元気が出た。2人のお仲間に会えて良かった。

ラジオの世界にも新しい技術の波が押し寄せていた。ミニチュア真空管の時代がやってきて携帯ラジオの製作に挑戦。四苦八苦しているうちにトランジスターの出現。ソニートランジスタラジオの最初の発売が1955年とのこと。それから数年の内にラジオの真空管は固体素子/集積化されてブラックボックスに入ってしまった。短波受信機のトランジスタ化は周波数の関係から遅れるとされたが、これも時間の問題であった。とうとう手作りラジオの時代が終わりになってしまった。自分の楽しみが奪われてしまったという思いがあった。同時に僕の子供の時代も終わりになった。1958年進学。新しい世界が始まった。(2002.5.31.記 卒業40年記念誌寄稿文から抜粋修正)