残照身辺雑記

日々の出来ごとや感じたことなどのあれこれを記録します。

経ヶ岬灯台を訪ねた 卑弥呼の都へ水行10日陸行1月(1)  

カニシーズンが終わるので浅茂川温泉に出かけた。雪を心配していつも3月末になるが今年は更に遅くなって4月に入ってしまった。あと二日でカニはお仕舞いという。

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以前は城崎が多かったが、ここ数年は浅茂川だ。

浅茂川温泉は丹後半島の西側の付け根の海辺にある。

宿の炬燵から見える八丁浜の景色が素晴らしい。犬を連れて朝の散歩をする人や、寒いこの時期にもサーファーの姿が間近に見える。すぐ近くには日本海側で最大の前方後円墳という銚子山古墳がある。ここは古代の丹後王国が栄えた地でもある。

 

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帰りに経ヶ岬灯台に立ち寄った。

岬までは初めてである。近くまでは良く来ていたが、路が悪いと聞いていたのと、日帰り釣行では時間も問題で敬遠していた。今回は行きたい理由もあった。

丹後半島を周回する国道176号は蒲入や伊根のバイパスやトンネルが完成して、すっかり快適なドライブウエーになっていた。

 

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 経ヶ岬丹後半島の先端にあって、海の難所である。

岬に住みつく悪竜に苦しむ漁民たちの願いに応えて、文殊菩薩が大陸から渡来して、一万巻の経を海に納めて悪竜を鎮めたという伝説がその名の由来という。

日本海に突き出た丹後半島は、海の難所であると同時に、対馬海流による古代の文明の伝来や人々の渡来をもたらすことになった。

「生駒の神話」さんが「古代史の謎は『海路』で解ける(長野正孝)」という本から引用されている文章をよんだ。『海路』という視点から古代史の謎解きができるというもので、とても興味深く、示唆に富んでいた。

古代史の謎といえば邪馬台国論争である。卑弥呼の都はどこにあったのかという単純な設問なので、誰もが意見を持ち、理解もできる。文献や物証が未だ十分でなく議論は尽きない。九州説と大和説の論争は決着しそうにない。『海路』という切り口が論争に新しい視点を与えてくれるかもしれない。

というのも、この文章のおかげで、邪馬台国についての、私にとっての大問題が、たちまち解消してしまったからだ。何が解消したのか?も含めて私の邪馬台国を紹介しよう。勿論、先人の苦労・苦心の説を援用するだけのことなので、論でもないし主張でもない。邪馬台国について理解し想像するというレベルのことである。

魏志倭人伝、即ち、『三国志』魏書東夷伝倭人条は、有名な「倭人は帶方の東南、大海の中に在り。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。旧百余国、漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。郡より倭に到る。・・」の叙述からから始まって、帯方郡から倭人の国に至る行程を以下の通り説明している;

帶方郡を出発して、韓国南部、対馬壱岐を経たのち、

一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。千余戸有り。
東南のかた奴國に至ること百里。二萬余戸有り。
東行して不彌國に至ること百里。千余の家有り。
南のかた投馬國に至る。水行二十日。五萬余戸ばかり有り。
南のかた邪馬壱國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。七萬余戸有り。

九州の末盧國に上陸した後の ”末盧國から女王の都する所まで” のこの僅かな記述を巡って300年間も論争が続いてきた。

さて以下私の邪馬台国;(1)邪馬台国奈良県桜井市纏向付近としよう。大和説は近年の大勢でもある。場所の特定もさることながら、一行の苦難の道程をリアルに想像することの方に関心がある。輸送手段は手漕ぎの丸木舟と人力で挽く修羅。車輪も馬もない。古代の人たちの知恵と強さと情熱を思う。

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(2)九州上陸後の道程は、大和説の通説に従って、末盧國=唐津市付近、伊都國=糸島市付近、奴國=福岡市付近、不彌國=福津市宗像市付近とする。方角についても90度北に修正するのが妥当とする説に従うことにする。以上を地図上に描くと右図になる。

不自然なところはなさそうだ。

(3)かくして、一行は末盧國上陸後、九州北部沿岸の陸路を順調に進んで不彌國に到着した。途中の伊都國では、駐在する中央官庁の役人の厳重な検査を受けて、魏の皇帝からの下賜の品々の無事が確認された。

(4)不彌國は、海洋豪族(海人族)宗像氏の根拠地であり、響灘西部から玄界灘全域の広大な海域を支配する海の強国である。福津市北部に残る新原・奴山古墳群は「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」として世界遺産に登録されてもいる。不彌國に到着した一行は、ここから卑弥呼の都に向けて水行20日+水行10日+陸行1月=合計60日の大旅行に出港するのだ。

(5)不彌國は出港の地に相応しい。選りすぐりの巨木から削りだされた波よけ板を備えた最新の半構造型の大丸木舟、卑弥呼のもとに届ける200枚の銅鏡、400反もの貴重な織物、数々の金銀財宝、大陸の貴人・役人・従者、屈強な漕ぎ手たち、彼らの腕力がこの船団を進める。海を知り尽くした海人族の案内人たち。準備が整った船団は今や遅しと出航の合図を待ち構えている。潮読み風読みの長老たちが遂に采配を振った。船団は乱れなく一斉に水面を滑って湾内から玄海灘へと漕ぎ出していく。20日の水行には20か所の錨泊地が必要だ。一行を迎える錨泊地に遺漏があってはならない。文字のない時代に仔細を伝え手配を整えるには困難があっただろう。早くからその手配がなされて来ている。不彌國は大事業の重要な担い手であった。

出航した船団の次の目的地は水行20日の「投馬国」である。大和の邪馬台国に向かうには、瀬戸内海経由か日本海経由かのいずれかである。瀬戸内海航路の場合は投馬=鞆、日本海航路の場合は投馬=出雲と考えられている。

さて何れであろうか?「投馬国」を何処に比定するか。これが答えが出せないでいた私の大問題であった。それが『海路』の文章を読んでたちまち解消してしまった。私の答えは日本海経由となった。従って、投馬国は「出雲」。出雲から更に水行10日で「丹後」に上陸。丹後から陸行1月して邪馬台国の都「纏向」に到着。これで私の邪馬台国が完結した。丹後半島は ”卑弥呼の都へ水行10日陸行1月”の地なのだ、即ち、出雲からの水行10日で到着し、邪馬台国のへ向けての最後の陸行1か月の出発地なのだ。

  

最初の記憶のこと  「敗北を抱きしめて」ジョン・ダワー を読んだ

(2018.02.04.にUpした記事を修正)

 

白い粉塵の中で黒い機械が轟音を響かせている。息苦しさと騒音の中でその場所の過酷さを感じていた。最初の記憶は何だろうと考えるとこの光景が浮かぶ。母に連れられて姉を学徒動員先の紡績工場へ慰問した時のことという。甥っ子からの年賀状に母は元気で店をやっていますとあった。母とは私の姉のことだ。それでこのことを思い出した。

学徒勤労動員は、12才以上の生徒・学生を対象に、昭和19年に始まって、昭和20年5月には、授業は無期限停止、学徒は総動員となり、中等学校以上の教育は事実上停止の状態に至ったとある。姉はこのさなかの高等女学校生であった。

昭和20年8月の終戦時は、私は就学前の6歳3ヵ月で、そのころの記憶はあいまいだ。警戒警報のラジオを固唾をのんで聞いたこと。駿河湾相模湾というB29の進入路のこと。真夜中の小学校のグランドから見た遠い町の空襲の赤い空。そして慰問に行った紡績工場の粉塵のこと。これらは終戦前のことになる。学校に出かける前に母が包丁で鉛筆を削ってくれた。鉛筆の芯は母が削らないと直ぐに折れた。粗末なわら半紙を糸で綴って作ったノートを母が持たせてくれた。雪の日の通学のわらの長靴。その長靴は1日ですっかり水浸しになった。これらは昭和21年4月の入学後のことになる。その境目にある敗戦の記憶はない。

姉を慰問した工場は今も健在だ。10大紡と謳われた企業のその工場は、その時々に適応して、新しい歩みを進めているのだろう。技術や事業は時代とともに変化し、生まれ変わって生きていく。このことは誰もが理解している。しかしふと思う・・。では日本は?全てが破壊された敗戦からどうやって?日本の生まれ変わりとはどんなものなのだろう。何故今のかたちのなのか?こちらの方面のことはとんと疎い。

1945年の敗戦から7年を経て、1952年に日本は主権を回復して、新しい日本へと生まれ変わった。生まれ変わりはその7年間になされたことになる。その間6才から13才だった私はそのことは知らない。でもそれに関わる全てに取り囲まれて育っている。破壊と混乱そして占領のこと、大人達の会話、報道、出版物、実際の見聞など、子供なりの理解や感性で、あるものは正しく、あるものは中途半端に、あるものは誤って、心に刻まれているだろう。

人は刷り込まれたものに支配されて生きる。それから自由であることは難しい。PC(ポリティカルコレクトネス)との葛藤などはその表れであろう。自分の国日本を、理解し、共感し、そして愛することにおいても、人は無意識のうちに、それぞれの理解や共感あるいは違和感や拒否感をもつ。それは何処からくるのだろう?真の理解には色のつかない真っ白で自由な自分が必要なのかもしれない。

年賀状から始まった「最初の記憶」の話が進まない。Blogの更新も滞ってしまった。そんな折に一冊の本に出会った。日本の生まれ変わりについての歴史ドキュメンタリーである。戦後の7年間を追体験させ、刷り込みをリセットし、そして”なぜ今の日本なのか?”の原点を教えてくれているように思う。

「敗北を抱きしめて」(上)(下)ジョン・ダワー(2001岩波書店)を読んだ。この有名な本の著者が1才年上の1938年生まれであることを知ったからである。同じ年代の人であれば似たような感覚で語ってくれるだろうと期待した。

著書は素晴らしかった。1945年8月の終戦から1952年の講和条約の発効まで、敗戦後の日本の7年間、連合国軍総司令部(=マッカーサー連合国軍最高司令官)による占領統治の時代の日本を描いている。1,000頁の大著に対して失礼と思うが、以下は私の関心事についての感想である。

先ず結論から; 敗戦後の”日本の生まれ変わり”と”なぜ今の日本なのか?”について、本著においてダワーが述べていることから以下を理解した。

(1)敗戦後の日本の再生について戦勝国は明確な意思、いわば設計図を持っていた。(2)それは軍国主義を排除し、平和国家、民主国家として再生させることであった。(3)これらの実現が占領終了の条件であり、日本と連合国との契約でもあった。 (4)連合国軍総司令部の使命は占領統治を通じ日本の再生を実現することであった。(5)但し、日本の再生は日本国の自発的な意思としてなされねばならなかった。 (6)それに必要な、ある意味矛盾した権限が、連合国軍最高司令官に与えられた。(7)占領統治は軍政(直接統治)ではなく、既存の体制による(間接統治)とされた。(8)それは効率・迅速の為であったが、旧来の政治・官僚体制の維持につながった。(9)天皇の問題は、戦勝国間で意見の隔たりがあり、処置方針は未確定であった。

これらのことが日本再生のための枠組みとなって、占領統治が行われ、その結果として以下の生まれ変わりが達成された。                                          (1)天皇問題の処置、即ち、戦争責任の問題と国体維持の問題:政治権力にとり権威による裏付けの必要性を了解し、且つ元来、天皇は政治の権力からは切り離された存在であったと解し、authorityからsymbolへの変換によって体制が維持された。同時に戦争責任の問題も克服された。但し、symbolの理解は個々人に委ねられた。                                          (2)  非軍国・平和国家、民主国家としての日本の再生の確認:戦争責任の断罪、財閥解体、農地改革、公職追放、教育改革などを占領統治と極東裁判で実行し、その精神を日本政府自らが、日本国憲法前文及び本文として具現化した。即ち、生まれ変わった日本は、日本国憲法そのものであるといえる。                  (3)日本国憲法は1947年5月3日に施行され、1952年4月28日サンフランシスコ平和条約の発効により、日本の占領が終了した。

日本は基本的な部分においては変わっていない。敗戦で全てがゼロになったのではなかった。むしろ、全ては続いている。このことを理解しその理由を納得した。

 

以下興味のあること各論; 米国では勝利の数年前から、戦争終結後の日本の占領統治のあり方を研究していたという。対して日本は?と考えさせられた。それはさておくとして、その研究では、天皇制の問題や戦争終結後の日本は平和国家・民主国家として再生されねばならないとする目標の設定、それを達成するための占領統治のあり方を探るものであったという。そして、それらは実行され、達成されることになった。

日本は”ポツダム宣言(=日本への降伏要求の最終宣言)”を受諾し、”降伏文書(英文=Instrument of Surrender)”に調印して敗戦が確定した。これらは日本の無条件降伏を定めるが、同時に、日本の降伏後の処理として達成されるべきことが表明されている。

「宣言」及び「文書」には、占領の解消、更には独立への道筋が示されている。そこでは、軍国主義を排除し、民主主義的風潮を強化し、平和的傾向を帯びた責任ある政府を、日本人民の自由な意思で樹立されることとされ、それらが達成されたとき、連合国占領軍は直ちに撤退するとされた。即ち”日本の生まれ変わり”についての処方箋が示されている(”ポツダム宣言”と”降伏文書”の処方箋の部分を抜粋して末尾に付記した)。 

以下興味のあること続き;

連合国軍最高司令官の使命は「ポツダム宣言」及び「降伏文書」に示された戦後処理を迅速に行うことであった。そこでは、占領統治の実行については、旧来の日本国公務員と陸海軍の職員は引き続き非戦闘任務に服させること、天皇及び日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官の制限の下に置かれるとされた。

即ち、占領統治の指揮・命令は連合国軍最高司令官が行い、実行は日本政府の組織、即ち、戦前の官僚組織が引継き行う体制となった。降伏文書に言う、天皇の適当な処置については、最終的には憲法上”象徴”とすること、即ち、天皇制民主主義の体制となった。天皇制についての様々の議論・問題、戦争犯罪論、両国・各国の世論、天皇と司令長官の関係等々が、極めてリアルかつ率直に記述されている。重要なところなので、詳しくは、原著書に委ねるのが適当と思う。様々な議論もなされています。

占領統治は迅速に進められた。完膚なきまでの敗北による、物質的・精神的喪失は、日本国民の新生日本への転換とその受容を強く後押しした。著者はこのことを、本書の表題”Embracing Defeat "と表現したのだろう。早くも1947年5月3日には日本国憲法が施行となり、戦後処理の基本的な部分が達成された。もちろん日本国憲法は、連合国軍最高司令部の監督のもとではあるが、日本政府が策定し、公布・施行されたものであった。しかし、占領下にある限り、その効力は連合国軍最高司令官の権力に従属していた。日本国憲法が完全に効力を有するようになったのは、1952年4月28日サンフランシスコ平和条約の発効により、日本に対する占領が終了した時になる。

こうして非武装平和国家・自由国家・民主国家を理念とする今の日本が生まれた。その理念は日本国憲法の中に具現された。それは、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼を寄せ、人類の平和と幸福を願い、民主主義の理想をうたっている。しかしその理想は現実との間で揺れ動き、脅かされている。

憲法施行から3年後の1950年6月朝鮮戦争が勃発し、その理念の根幹を早くも揺るがした。又、目覚ましい経済的な成功は、敗戦を抱きしめながら理想を願ったときの記憶を薄れさせた。世界の状況はいつも苛烈だ。時として戦争放棄・世界平和の理想を脅かす。そして今憲法論議が盛んである。思いを巡らし、考えを深めなければならない。日本の生まれ変わりを知ることはその助けになるだろう。☆☆☆参考の書としてお勧めです。

 

ポツダム宣言(全13項から3項を抜粋)
第6項 日本の人々をだまし、間違った方向に導き、世界征服に誘った影響勢力や権威・権力は、排除されなければならない。無責任な軍国主義が世界からなくなるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能である。
第11項 日本政府は、日本の人々の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって、障害となるものは排除する。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重が確立されなければならない。
第13項 連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯び、かつ責任ある政府が樹立される限りにおいて、直ちに日本より撤退するものとする。


降伏文書(全7項から3項を抜粋)
• 公務員と陸海軍の職員は日本降伏のために連合国軍最高司令官が実施・発する命令・布告・その他指示に従う 非戦闘任務には引き続き服する
ポツダム宣言の履行及びそのために必要な命令を発しまた措置を取る
天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認める処置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる。

 

今年の桜は観測史上最速の開花

ひばりの初鳴きから一週間が経った。季節外れの暖かい日が続いて、公園はすっかり春全開になった。ひばり達も総出になって、忙しげに動き回っている。

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公園の若い桜の木も満開だ。街開きから10年がたって、ようやく桜の木らしい開花になった。

f:id:afterglow0315:20180403212810p:plain今年の桜は各地で観測史上最速の開花という。当地でも、例年より1週間は早 い感じだ。

春に三日の晴れなしというが好天が続いて形無しだ。

桜の季節が急ぎ足で過ぎていく。

 

大船山 653.1m  初めての遠征登山 山歩きの記録(5)

今年最初の登山に大船山に出かけた。大船山北摂山系の西端に位置している。三角錐の優美な姿で知られるが、それは西側の三田市側からで、登山口に向かう南側からは美しく見えるスポットには恵まれない。写真は途中の波豆川沿いの麓からのもの。

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登山口の三田アスレチックに車で20km/40分で着いた。これまでは、登山口まで自宅から徒歩で行ける山ばかりだったので、今回は初めて車で遠征ということになる。

自宅から登山口まで1時間近く歩くのは結構大変だったが、それに比べると、行きも帰りも車でのアプローチで、遠征の方が返って随分と楽だ。

【行程概要】                                      三田アスレチックの駐車場から大船山頂上を往復した。登り:70分 下り:45分。

【行程地図】国土地理院の電子地形図に行程とコメントを追記して掲載)

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【行程説明】

三田アスレチック三田市波豆川にあるキャンプ場 カーナビ 079-569-0024    駐車場に車を止めて目の前のキャンプ園地に入る。掃除をしていた管理人の女性に駐車料金500円を払う。”二人組の男性が入山した。今日は天気がいいから眺めがいいでしょう”と話しかけてくれる。先客があると聞いて少し安心して出発。

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駐車場→峠(20分):園内の舗装路を進むとすぐに山道になる。杉の植林の間を進む。道は緩やかだが、ゴロ石に注意。道は広くてしっかりしている。難なく「峠」に到着。戸倉からの道が合流している。標識あり。小休止してから左折。 

 

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峠→鞍部(25分):広葉樹が混じるようになる。道は少しづつ登りになってくるが息が切れるようなことはない。今日は風が涼しく汗ばむこともない。道なりに進むと「鞍部」に到着。迷うような所はない。T字の交差点で少し広くなっていて、丸太のベンチや記帳ノートBoxと記帳台などが備えてある。ここからは最後の登りになるので、チョコレートとお茶を補給。記帳もしてゆっくり休憩。右折。

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 鞍部→頂上(25分):頂上に向けて急な登りになる。登り始めてすぐに女性の二人連れが下りてくるのに出会った。様子を聞くと”少し大変だった”とのこと。急な傾斜にはロープが張ってあるので大いに助かる。ロープを頼りに慎重に一歩一歩登る。足のバネの衰えを痛感する。それでも問題なく頂上に無事到着した。脚力が問題だが心肺の方は大丈夫だ。

山頂:小さい広場になっている。三等三角点の標識、石積みの祠、山の歴史の説明板、遠くの山の案内標識など盛り沢山で込み合っている。

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眺望は素晴らしく周囲の山々が見渡せる。一息入れていると男性の二人組が現れた。管理人が言っていた先客だろう。話を聞くと昆虫を集めているとのこと。四角い凧のようなものを持っていて、木をたたいて落ちてくる虫をそれでキャッチするらしい。

詳しそうなので山の名前を教えてもらった。大野山の山頂の白い天文台のドームと剣尾山の特徴ある姿がよく見えている。

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      <大野山>

 

 

 

 

 

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     <剣尾山>

 

そうこうしているうちに体が冷えてしまった。風が冷たくて少し強い。アノラックを取り出してベストと着替えた。丁度お昼になったのでコンビニ弁当を食べてから下山することにした。

下山: 頂上→鞍部(15分)鞍部→峠(15分)峠→駐車場(15分):登りと同じ道を引き返した。

2年目の山歩き 北摂の山並みを望む

冬休みしていた山歩きを再開することにした。山登りビギナーの去年は、先ずは、近くの山に登ることにして、青貝山、高代寺山、天台山妙見山の4山に無事登頂することができた。年齢・体力の様子も分かった。どれも登山口まで家から歩いての山歩きだったが、そんな近場の山はもうないので、今年は車で遠征しての登山となる。  

f:id:afterglow0315:20180331195358p:plain行動範囲は格段に広くなるが、これと言って目指す山があるわけではない。とはいえ、行き当たりばったりでは芸がない。

どうしようかと思案するうちに公園の高台から北摂山系の山々が一望できることを思いだした。

早速、写真を撮って帰って、地図と突き合わせながら、目立つピークに山の名前を当てはめた。方角はかなり正確だが、当然ながら、手前と奥の距離関係は割り出せない。何とか完成したのがこの写真。少々怪しいところもあるが、取りあえずの役には充分である。いずれのピークも「山と高原地図昭文社)」に収載されている人気の名山である。身近で親しみを感じることになった。2年目の山歩きは北摂山系のこれらの山々に出かけることにする。登山口までは車で1時間位だろう。

ひばりの初鳴日 生物季節観測と七十二候

ウオーキングに出かけるいつもの公園でひばりのさえずりを聞いた。今年初めてのことだ。寒さが2,3日続いたが、今日からは暖かさが戻るという。それを知っていたf:id:afterglow0315:20180324133434p:plainかのように高く舞い上がって、元気に春を告げている。

「うぐいすの初鳴き」とはよく聞くが、「ひばりの初鳴き」という言い方はあるのだろうか?調べてみると、気象庁が行っている”生物季節観測”に「ひばりの初鳴日」が観測対象になっていることが分かった!

”生物季節観測”は、1947年の国際気象会議(於ワシントン)の勧告に基づいて、1953年1月に中央気象台が制定した『生物季節観測指針』(現在は1985年第3版)に基づいて行われているとのことだ。

植物12種、動物11種について、開花日、満開日、紅葉日、発芽日、落葉日、初鳴日、初見日を、各地の気象台が観測するもので、季節の遅れ・進みの具合、気候の違いなどの把握や、生活情報としての利用などを目的に行なわれている。

身近な動植物が対象になっているが、変わったものでは「トカゲの初見日」、やや意外なのは「ひばりの初鳴日」だろう。気象台によっては地域独自の観測種が追加されている。観測の結果はリアルタイムで公開・更新が行われている。

「ひばりの初鳴日」の最新データは、2018.3.23.下関地方気象台松江地方気象台、2018.3.20.新潟地方気象台、2018.3.19.京都地方気象台となっている。当地のひばりも季節は判っていて、よそ並みに鳴き始めてくれたことになる。

生物季節観測は生物の動きを観測して季節を知るというものだが、これとは対照的に、暦で季節を知ろうというものもある。良く知られる二十四節季は代表的なものだが、七十二候という季節暦があることを知った。

七十二候暦では、二十四節季をさらに初候・次候・末候に細分して、1年を二十四節季×3、即ち、七十二候で表すとするもので、一候が365÷72=5日になる。候の名前には、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文が当てられている。

今の時期の春分でいえば、春分初候は3月21日から25日で雀始巣(すずめはじめてすくう=雀が巣を構え始める)、春分次候は3月26日から30日で 桜始開(さくらはじめてひらく= 桜の花が咲き始める)、春分末候は4月1日から5日で 雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす= 遠くで雷の音がし始める )とされてる。

公園のひばりは、七十二候にいう春分初候=雀始巣 にピッタリと合わせるように、縄張り宣言をして、巣作りを始めたことになる。季節暦と自然の営みが重なり合う確かさに感心させられる。尤も暦の方は雲雀でなくて雀だが・・似たようなものとしよう?

上空のひばりの方は、ひとしきり激しくさえずると急に静かになって、縄張り宣言はもう充分とばかりに、真直ぐに急降下して、近くの草むらに消えた。ひばりの生活場所は、えさ取り、巣作り、子育てなど、ほとんどが地上の草むらの中で、空に舞い上がるのは巣作りの縄張りを主張するときぐらいという。

公園の周辺は、広々していて草地が多いので、ひばりには適地らしく、寒い時期以外は、よく見かける。しかし地上で行うという巣作りや子育てを目撃したことはない。見つからないようにと願うが、自然の配慮は十分らしく、その心配は無用らしい。 

春の多紀連山 フキノトウと雲部車塚古墳

今日は朝から春本番の陽気になった。好天は今日までとのことなので、フキノトウ採りに出かけることにした。例年は2月末か3月初めなのだが、今年は遅くなってしまった。フキノトウの芽吹きは早く、残雪の中でも採ったこともある。ここ数日ことに気温が高い、伸びすぎていないかタイミングが心配だ・・などと話ししながら、いつもの篠山市北部の多紀連山に向けて出発した。

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多紀連山は篠山盆地の北側に連なる標高700~800mの連山で、日本海に注ぐ由良川水系と瀬戸内海に注ぐ加古川水系とを分ける中央分水嶺になっている。全体は兵庫県に位置しているが北側は京都府に接して府県境界になっている。その山々の北側の麓が我が家の山菜スポットなのだ。連休の頃にはわらびも伸びてくる。だいぶ前のことだが、道路わきの竹林のカーブを注意しながらゆっくり運転していると、沢山取れたから持って行きなさいと、掘ったばかりのタケノコを頂いたことがある。通るたびに思い出す嬉しい記憶だ。

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 国道173号を北上し、途中から多紀連山の裏側に回り込むかたちで約1時間のドライブになる。山道に入ってしばらくすると人家や耕作地が途切れて、通る車もめったになくなる。所々で車を止めては移動しながら探すことになる。フキノトウはどこにでもある訳ではなく、要領を得ないと見つけるのが難しい。水辺に近くて日当たりが良い、小川の土手や用水路の脇、田畑の畝や道路脇の斜面などが好ポイントである。根茎性の多年草なので一度場所が判れば毎年だいたい同じような所で見つけることができる。

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以前は簡単に飛び越えた小川も今は何かに掴まらないと危なくなった。情けないことだ。カメラを首から下げているのでなお更だ。今日はフキノトウは妻に任せて、カメラに専念することにする。

鮮やかな黄緑色の芽吹きは良く目立って春の到来を告げている。日差しの中でまさに春が来たーという感じで明るい気持ちになる。少し伸び加減だが大丈夫。今日の収穫は150gでフキノトウ味噌を作るには十分な量だ。採りすぎると次の年に響くような気がしている。意外に繊細なようだ。

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帰りに雲部車塚古墳に立ち寄った。こちらの方は多紀連山のすぐ南側である。5世紀に造られた前方後円墳丹波地方では最大の墳墓という。4世紀頃までは大型の墳墓は、専ら丹後地方に造られ、独自の丹後王国が繁栄したとされるが、丹波に築かれた雲部車塚古墳は、その後の大和王権への権力の移行を示しているという。静かな田園の中に環濠に囲まれた美しい姿を見せている。取り囲む水に浮んでいるようで優美さが際立っている。どんな歴史を秘めているのだろう。